シリーズ中心市街地【15】~【18】

シリーズ中心市街地【15】~【18】
2019.1.29


 今回は「その15」で岩手県「一戸町」をレポートし、「その16番外編②」では「戸」(へ)の字のつく市町村を上げて理由を解説し、「その17」では僕の「思い出のストリート」を書き込み、「その18」では宮古市のメインストリートとともに駅の南側の拠点の完成を伝えています。
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 一戸の取材のときには、大雪が降ってきて「ちゃんと取材ができるのだろうか?」と不安になりました。でも、偶然に出会った地元の書店の店主さんが「萬代舘」という歴史あるレトロな映画館に案内してくれました。
 おかげで一戸のようすを立体的に伝えることができ、いまでもとても感謝しています。この一戸の記事を境にして、それまで1枚だけ掲載すると決めていた写真を複数枚掲載するようになりました。
 
 また、宇部町の原稿は僕のノスタルジーだらけになってしまい対象との距離感がわからなくなってしまうと思って記事にするのをためらっていました。自分の独り言にならないかと‥‥。でも「それでいいんじゃない」という声をある人からいただいたので安心して書き込みました。

 宮古市の取材では、写真を撮ったあとで市役所に行きました。時間は18時を少しすぎていました。パンフレットがあれば持って帰ろうかなというくらいの気持ちだったのですが、職員のかたが広報誌や市勢要覧のダイジェスト版を持たせてくれてうれしかったことを覚えています。

 以上、取材のときの状況や思いを少し書いてみました。すべての記事は取材してから24時間以内に書いています。だから、もしかするとこれらの思いも記事に滲みだしているかもしれません。


                                                                                +タイトル下の数字は記事をfacebookに初載した日付け
 シリーズ中心市街地―その15************************

 文化レトロな街並みにイメージ 2
 現代的な光がとけこむ
  ~ 一戸町のメインストリート ~

                                  2019.1.6
 
 
 岩手県の内陸北部にある一戸町(いちのへまち)。

 一戸の由来は諸説あるが平安末期からの地名で、名馬の産地として有名だったという。現在の一戸町は1957年、一戸町、浪打(なみうち)村、鳥海(ちょうかい)村、小鳥谷(こずや)村、姉帯(あねたい)村の1町4村が合併し誕生した。

 一戸町にある「奥中山高原」(おくなかやまこうげん)はスキー場や温泉、遊びの広場などがあり多くの観光客が集まる人気スポット、4500年前の縄文中期の人々が暮らした村へタイムトリップできる「御所野遺跡」(ごしょのいせき)もよく知られている。

 一戸町の現在人口は1万2,576人・5,736世帯(2018年12月1日現在)。
 商店などが集積するメインストリート(中心市街地)は、県道210号から続く県道274号(旧国道4号)沿いの南北約1.5kmの範囲。なお、一戸町役場は210号沿いで、274号からもアクセス可能、IGRいわて銀河鉄道「一戸駅」手前の脇道を入って百メートルほどの位置になる。

 メインストリートを歩イメージ 3いて見る。
 萬代橋(ばんだいばし)のたもとにある「萬代舘」(ばんだいかん=写真左)は、映画ファンやレトロ建築が好きな人にはたまらない施設。
 同館は1909(明治42)年に蔵を改造して人形芝居小屋としてオープン、現在の建物は映画が大衆娯楽として絶頂期を迎えていた1956(昭和31)年に建築された現役の映画専用館。2008年3月に所有者から町に寄付され改修が行われ、映画や演劇、講演会、催事などの用途で使われたり貸し出されたりしている。通りのなかほどにあった書店の店主が「せっかく遠くからきたのだから建物も建物のなかも見て行ってください」と案内してくれた。

 そのほかランダムに書き出してみると、食品店があり、家庭用雑貨を売る荒物屋があり、洋品店があり、スポーツ店があり、時計店、酒屋、花屋、内科、クリーニング店、美容院、薬局、釣り具やプラモデルなどを扱っているホビー系の店、郵便局、電器店、メガネ店、米屋、信用金庫、岩手銀行東北銀行、眼科‥‥など。一戸駅にはコンビニがビルトインしている。イメージ 5

 通りで雪かきをしていた人に聞いてみた。
 「一戸はかつて3万人に迫る人口があった…そんな頃もあったのです。そのときはいよいよ市に!と期待したものですよ…」
  

  写真を撮っている途中、景色がかすむほど雪が降ってきた。雪が描き出す幻想的な風景がそこにあった。
 文化レトロな街並みに現代的な光がとけこんでいた。



 シリーズ中心市街地―その16<番外編②>***************
 
 四戸はないのですか?
       ~ 1から9まで並ぶ地名 ~ 
                                                             2019.1.7


 これまで、中心市街地を紹介してきた自治体の名前に「戸」の文字がついているケースが多いことにみなさんは気がついていると思います。

  岩手県には一戸町(いちのへまち)、二戸市(にのへし)、九戸村(くのへむら)があります。青森県には三戸町(さんのへまち)、五戸町(ごのへまち)、六戸町(ろくのへまち)、七戸町(しちのへまち)、八戸市(はちのへし)があります。
 県を取り払って順番に整理しなおすと、一戸、二戸、三戸、五戸、六戸、七戸、八戸、九戸となり、1~9までの数字が並びます。

 「ちょっと待った!」と言うあなたは鋭い、そう「4」が抜けています。
 あなたのように鋭い人がいたので、調べて写真を撮ってきました。

 「戸」の地名はいつできたの、「戸」の意味は?

 二戸地区広域商工観光推進協議会が編集・発行している「岩手のてっぺんVol.1ふしぎ発見」という小冊子によれば、「戸」の地名がいつできたかについては諸説あっていまだに結論はでていないそうです。
  ただし「鎌倉幕府の正史イメージ 4である吾妻鑑(あずまかがみ)の文治6年(1190年)の項に、陸奥の『戸』で産出した馬を指す『戸立』(へだち)という言葉がでてくることから鎌倉時代初期には成立していたと考えられています」と書かれています。
  

  同書ではまた「戸」の意味を、東北古代史研究の第一人者である高橋富雄氏の説を引いて紹介しています。それによると当地域は古来名馬の産地として知られていて、馬を年貢として納めるための個別経営体として「馬戸」(うまへ)を設置したとのこと。馬戸の集落を「馬戸村」と呼び、それが「一戸」や「二戸」に移行したというのです。

 さて、4はないのでしょうか?
  結論から言いますと「四戸」(しのへ)はありました。
  八戸市の西部にある「櫛引八幡宮」(くしびきはちまんぐう)という鎌倉時代からの神社は「四戸八幡宮」と呼ばれ、この地域を支配した櫛引(くしびき)氏は「四戸殿」と呼ばれていたとのこと。櫛引八幡宮周辺や旧福地村(現南部町)また旧南郷村(現八戸市)などの一帯が四戸だったと考えられているそうです。
 というわけで、北岩手そして青森県南東部の地域は名馬の産地だったことがわかりました。

 僕らが住んでいる場所は名馬の地、きっとほかにも全国に誇るべきさまざまな文化が花開いていたんだろうな……そんなプライドをくすぐられるような思いがシャッターを押しているときに湧いてきて、少しだけ暖かくなりました。

 *右上の写真は八戸市にある櫛引八幡宮、いまは残っていない四戸の拠点。2019年1月6日19時に撮影


 シリーズ中心市街地―その17<番外編③>***************
  
     心の中のストリートは輝いていますか?
                       2019.1.10
   
  写真は岩手県久慈市宇部町(うべちょう)のメインストリート。
  これまではたとえばA市の中心市街地、B町のメインストリート、あるいはC村の中央部の商店街といったようなレポートでしたが今回は、久慈市宇部町という市のなかの一つの地域のストリートをとり上げます。
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 なぜ、今回は少しニュアンスが違うとり上げかたにしたの?という問いに答えるならば、ある人の言葉に触発されたから。
「私は宇部さんがレポートしてくれた町に遠くから嫁いできました。ほかにレポートしてくれている近くの市町村も、私からすればまったく知らない場所ですから宇部さんの記事はとても参考になります‥‥」と言ってくださったのです。

 僕は「あっ」と思いました。この人のようになじみのない場所で暮らしている人は多いだろうから、参考になると読んでくれるのはとてもうれしいこと。そして、その人たちはいま住んでいるまちのほかにも、それぞれが心の中に「思い出のストリート」「大切なストリート」をもっている。

  だから「思い出のストリート」「大切なストリート」をとり上げることで、どこかあたたかい気持ちになってもらえたらいいなと思ったのです。

 というわけで今回はイレギュラーになりますが、その事例として久慈市のなかの宇部町をとり上げることにしました。なぜなら僕は宇部町の出身で、宇部町の通りは僕の「思い出のストリート」であり「大切なストリート」だから。

 僕は宇部町で生まれ、高校を卒業して東京へ出ました。18年間住んだまちです。数年前に戻ってきていまは久慈市の中心部近くに住んでいるので宇部町には住んでいません。宇部町は何回も通っているのですが、クルマを降りて歩いたのは戻ってきてから今回がはじめてです。でも僕のふるさとは宇部町、その思いはまったく揺るぎません。

 なぜ素通りしていたのか‥‥物事をほとんど知らなかったのにわかったふりをして偉そうに通りを歩いていた中高生時代、東京へ出るときにいまはもう亡くなった母といっしょに手を合わせた丹内神社(たんないじんじゃ=左下写真)など、数々の出来事があった場所だから。どうにも気後れして自分の青春時代と直面する気になれなかったのです。この気持ちというか感覚は、おそらくわかっていただけるのではないかと思います。

 さて、現在イメージ 7久慈市全体の人口は約3万5,000人、そのうち宇部町の人口は約3,000人です。このシリーズで以前紹介した普代村(ふだいむら)よりも数百人、人口は多いのです。
  
  ただし、宇部町は「じぇじぇじぇ!」の言葉で有名な小袖(こそで)地区や久喜(くき)地区、三崎(みさき)地区など海沿いの地域と、海よりは少し内陸側を走っている国道45号沿いの地域から構成されています。海沿いの地域には小中学校も宇部小、宇部中とは別にあります。

 海沿い地域の人口は約1,500人ですから、国道45号の通りは、宇部町全体の人口3,000人から海沿いの地域の人口約1,500人をのぞいた約1,500人がつくりだしているストリートだと考えてください。

 久慈市の中心部から国道45号を約7キロ南下したところにある宇部町のメインストリート(=この記事の1枚目に掲載した写真。右上)は、国道45号の南北約1キロの範囲に商店などが並んでいます。三陸鉄道陸中宇部駅も、通りの途中の脇道を少し入ったところにあります。

 45号沿いの商店を書き出してみると、ミカンなどの果物やタバコなどを扱う小さな店、布団・洋品店、家庭用雑貨などの全般を扱う荒物屋、日本酒「福来」(ふくらい)の販売店醸造所、食品の店、小さな雑貨店、ガソリンスタンドなどがあります。生鮮食品スイメージ 9ーパー(=左写真)もあります。実はスーパー以外の上記の店は、僕が住んでいたころにもあった店で、扱う品数は縮小しているようですが、それらの店舗が現在も続いているのです。

 昔話をするのかと言われそうですが、僕が18歳までのころにあった上記以外の店も思い出しながら追記してみます。
  和菓子屋があり、クリスマスのころにはケーキもつくっていました。魚屋はいつもにぎわっていて、夕方になると店頭で魚を焼いて通りにいい匂いを漂わせていました。床屋が2軒もありました。ラーメン屋もあり町の人たちがよく「絶対にうまいから」とほかからきた人たちに自慢していました。

 記憶は美化されると言います。イメージ 8
 僕は「こんなにすごかったんだよ」と強調して記憶を語ってみたわけですが実際のところ、現在通りにある店に追記したような店が加わったとしても、宇部町に思い入れがない人にとっては、果たしてかわりばえがして見えるのかどうか…?
  正直に言えば、それほど大きく違って見えるわけでもないのかなとも思ったり...。

 ちなみに、僕の卒業した宇部小学校の全校児童数は現在68人、宇部中学校(=右写真)は全校生徒が29人だといいます。僕が中学のときの全校生徒数は150人くらいだったと記憶しています。後輩たちがクラブ活動にも困っているという話を聞いて、僕のまちはこの先どうなるのだろうと少し不安を覚えました。

 書ききれないほどの思い出があり、言い尽くせないほどの想いがあふれてくる宇部町のストリート。ここは僕にとって、懐かしく、温かく、ほろ苦く、何ともいえない淋しさを同時につれてくる場所です。


 シリーズ中心市街地―その18**********************
 
    駅の北側の3つの通り
    回遊誘う拠点施設もオープン

         ― 人口5万3,000人の岩手県宮古市 ―
                                                                   2019.1.12

 
 岩手県宮古市(みやこし)の中心市街地は横長の四角形のエリア。
 JR宮古駅三陸鉄道宮古駅を四角形の左下の角に見立てて、「縦の辺」として駅から上方向(北)へ約600mラインをひく、同じように「底辺」として駅から右方向(東)へ約1kmラインをひく。この縦横の長さで構成する四角形の範囲が宮古市中心市街地。 イメージ 10

  簡単に言えば、駅北側の縦600m×横1kmからなる長方形のエリア。

 この中心市街地エリアには、商店などが集積している通りが3つある。

 1つめは、鉄道の線路に並行して東西に走っている「大通り」(=右写真)、飲み屋が集中していて赤提灯の風景が心を浮き立たせる。

 2つめは、駅前ロータリーから北約50mのところにある十字路を東に向かう通りで「末広町(すえひろちょう)商店街」(=左下写真)、そして「中央通り商店街」と約1km続く。イメージ 11
  この2つの商店街がある通りはまさに同市のメインストリートであり、観光案内所の女性も「昔からの商店街です」と言う。大型書店・文具店、銀行、荒物屋、カメラ屋、寿司屋、旅館
電器店衣料品店、魚屋、時計店、酒屋、薬局、スポーツ洋品店、お茶・海苔店、接骨院、割烹、理容室、美容院、米屋、薬局、内科、生花店などが軒を連ねている。

 3つめの通りは駅前から北にのびる県道40号宮古岩泉線、通称は「あいさつ通り」。
  駅からあいさつ通りを600メートルほど北上すると、宮古の山海の幸を商う「魚菜市場」(ぎょさいいちば。右写)がある。イメージ 12観光客にも人気のスポットだが、現在はリニューアル工事中(3月23日リニューアルオープン予定)のため大型駐車場の仮設店舗で数店舗のみが営業している。そのほか、あいさつ通りにはコンビニ、銀行、携帯電話ショップ、呉服屋、おもちゃ屋、床屋、生花店、薬局、医院、ドラッグストアなどがある。
 「いまはこの通りをあいさつ通りと呼ぶ人は少なくなっていて、ほとんどが『魚菜の前の通り』と呼びます。以前と違って個人経営の店がだいぶ減ってきて…」と地元の人。

 豊かな漁業資源と三陸復興国立公園浄土ヶ浜(じょうどがはま)、早池峰(はやちね)国定公園など自然環境に恵まれている宮古市。2005年に田老町(たろうちょう)と新里村(にいさとむら)を編入し、2010年の川井村(かわいむら)の編入によって岩手県内一の面積を有する自治体となった。
イメージ 13
 2019年1月1日現在の人口は5万2,973人。
 昨年6月22日には北海道室蘭市宮古市を結ぶ岩手県初のフェリー定期航路が開設、今年3月には三陸鉄道の南北リアス線と復旧中のJR山田線の宮古・釜石間がつながり「リアス線」として一貫運行される。

 なお、昨年10月1日に市民交流センター、市本庁舎(市役所)イメージ 14、保健センターがビルトインした中心市街地拠点施設「イーストピアみやこ」(=上写真。中央奥の高い建物)が駅の南側にオープンし、線路をまたぐ自由通路「クロスデッキ」(=右写真)で駅の南北が結ばれるなど、回遊を誘うまちづくりによる賑い創出効果が期待されている。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー (記事/写真・宇部芳彦)