小中学校の廃校活用を考えよう -その3

Bird’s- eye view 
小中学校の廃校活用を考えよう-その3 <森の巣箱・上編>

ケーススタディに見る再生と運営の実際
                                                                                     
                                             2016.10.4


  高知県高岡郡津野町(つのちょう)の小さな集落にある廃校活用施設をレポートする。イメージ 1住民らが完全自立して経営・運営を行なっている注目のケースだ。オープンから13年が経過し14年目を迎えている現在、新たなミッションを加えた第2ステージへと突入。「日本一幸せな集落」を実現して全国に発信すると決意している。
 *なお、今回のレポートは上編・下編の2回に分けてお伝えする


ケーススタディ3 旧床鍋小中学校
あきらめずに夢を語ろう  森の巣箱(上)
~ 平坦ではなかった活用への道 ~
                                               

 高知空港からクルマで1時間30分ほど走り、津野町に到着した。2005年2月に葉山村と東津野村が合併して誕生した津野町は、高知県の中西部に位置している。旧葉山村の地域には新荘川(しんじょうがわ)が、旧東津野村の地域には四万十川しまんとがわ)が流れている。
 津野町の人口は2016年7月31日現在、6,084人・2,698世帯。葉山地域にある津野町役場本庁舎そばには「かわうそ自然公園」がある。隣接する須崎(すさき)市まで続く総延長24kmの清流・新荘川ニホンカワウソの生きた姿が最後に確認された川だ。かわうそ自然公園から数分の貝の川地区には棚田の景観が広がっている。
 床鍋(とこなべ)集落にある「森の巣箱」は役場本庁のある町の中心部から「床鍋倉川夢トンネル」を通ってクルマで10分、そこは住民89人・36戸の小さな里だった。
  
イメージ 2

   2003年4月オープンした森の巣箱、
                コンビニ、居酒屋、宿泊機能をビルトインする


燦然と輝く地域のシンボル
~住民経営による完全自立~

イメージ 3
 津野町の中心部から約5kmの距離にある床鍋集落(写真右)。
 いまでこそ町の中心部へは床鍋倉川夢トンネル(以下=夢トンネル)を通ってクルマで10分ほどだが、2004年3月に夢トンネルが開通するまでは隣接する須崎市を経由してアプローチするしかルートがなく、役場(写真右下)などが置かれている中心部まで40分もの時間を要していた。
 そのため、同じ津野町(葉山村)でありながらゴミ収集車がこない、救急車や消防車がくるにも数十分かかるなど行政サービスにも大きな格差があったという。イメージ 4
「まさに陸の孤島ですね。そんなところに住んでいないで引っ越せと言われたのも1回や2回じゃなかったですよ」と苦笑するのは森の巣箱施設長の大﨑登(おおさき のぼる)さん。
 床鍋小中学校合同校舎が開校したのは1952年のこと。かつて林業と炭焼きで栄えていた床鍋集落、最盛期は100人あまりの児童生徒が通っていたという。
 しかし、時代が進み人口減少と少子高齢化の波が押し寄せてくる。1966年に中学校が廃止になり、1984年に小学校が廃止になった。廃校時、児童は7人になっていた。イメージ 5
 この廃校舎にコンビニ、居酒屋、宿泊機能を盛り込んで「森の巣箱」(写真左)は2003年4月、オープンした。
 オープン年の年間宿泊者数は1,500人、数年間1,000人を超え、その後は600人から1,000人のあいだで推移している。
 コンビニ、居酒屋、宿泊、また各種イベントなど、森の巣箱の運営は集落住民の経営による完全自立である。ちなみに、コンビニなどを切り盛りする施設職員1名とパート1名には給与も支払われている。
 校舎うらにある旧講堂「やまがらホール」は合宿など大型グループの宿泊やイベントなどで使うほか、集落の集会所としても使用する。校庭を挟んだ校舎前にはJAから受託した「ししとうパック詰め」のための選果場をオープン2年目に設けて、集落の高齢者が収入を得る場所をつくりだしている。
 加えて3年ほど前からは「集落福祉」を新たなミッションに掲げ、高齢者の見守り拠点の役割を担うべく活動を進めている。
 自立運営を続ける森の巣箱は高知県が推進する「集落活動センター」のモデルの一つになったと言われている。県のモデルにとどまらず、2007年には「過疎地域自立活性化優良事例総務大臣賞」を当時の総務大臣増田寛也氏から受けている。イメージ 6
 森の巣箱は廃校を活用し地域活性化を実現した理想のケースと評価されていて、全国の自治体関係者や住民グループらがひっきりなしに視察に訪れている。大﨑施設長も全国各地のまちづくり関連セミナーにスピーカーとして招へいされ、これまでに行なった講演は40数回を数えている。

                                      廃校になる以前の床鍋小中学校の校舎

床鍋が消滅してしまう!
~暗いとこには嫁もきやせん~

 以上のように脚光を浴びている森の巣箱。しかし、活用へといたる道は平坦ではなかった。
 時は21年前にさかのぼる。イメージ 7
 1995年、集落内の有志15人ほどが「このままでは床鍋は消滅してしまう、床鍋を何とかせないかん!」と声を上げた。彼らの中には若き大﨑施設長
の姿もあった。有志らの活動は1999年ごろまで続いている。
 1999年当時の床鍋集落の世帯数は48戸・人口150人、高齢者数は63人(高齢化率42.0%)で児童生徒数は12人。同年の葉山村の高齢化率は30.6%・児童生徒数は590人であり、村のなかでも床鍋集落の少子高齢化は極端だった。
「私は床鍋中学校最後の卒業生です。閉校になって放置されていた校舎は暗い雰囲気を漂わせていました。最初のころは村にお願いして校庭に照明をつけてもらってソフトボールなどをやったりしていたのですが、そのうちに県道(*筆者注・前述した須崎市経由で町の中心部へ向かうルート=写真右下)に木々が覆いかぶさり暗くなっていることにもがまんができなくなった。こんな暗いとこには嫁もきやせん!と支障林をボランティアで伐採しました」と大﨑施設長(写真右上)は言う。彼が40代のころだ。
 木々の所有者を探し出して伐らせてくれとお願いするとともに、集落の人たちにも伐採に参加してくれと声をかけるなど集落を巻き込んでの活動になったという。イメージ 8
 こうした若い世代のうねりを受けて同年(1995年)「床鍋地区開発検討会」が発足し、住民と行政の2人3脚で活性化へ向けた話し合いがスタートする。
「行政に床鍋の現状を訴えて地域活性化のアドバイスや支援をお願いしようと、住民らが何回も集まりました。葉山村の担当者も毎回出席してくれました」(大﨑施設長)
 検討会の場ではさまざまな訴えや提案がなされたが、村の担当者はそのたびに「主人公はあくまでも住民。集落全体で汗をかいて未来の絵を描いてください。行政はあくまでもサポートに徹します」と答えていたそうだ。
 そのようにして数年が過ぎていくのだが2000年、40代・50代の16人が集まり「床鍋とことん会」を結成。とことん会は、まちづくりの専門家や高知大学の学生と意見交換すると同時に床鍋の住民らとワークショップ形式(参加者全員が主体となって発言するスタイルの会議)で議論を重ねて集落の魅力と問題点を洗い直し、2001年3月「葉山村床鍋集落活性化プラン」を策定する。
「活性化プランには①河川ゾーン②神社ゾーン③学校ゾーンの3つのエリアの魅力を高めるための景観・施設整備などを盛り込みました。これを住民たちに示して話しあった結果、学校を活用しようとなったわけです」(大﨑施設長)
イメージ 9 この計画には、ワークショップの場で住民たちから上がった声、「コンビニ」「居酒屋」「帰省客のための宿泊施設」がほしいというニーズが盛り込まれた。すなわち「住民のための施設」として森の巣箱がつくられることが決まり、その後、具体化に向けてのさまざまな会合がもたれ2003年4月、森の巣箱はオープンにいたるのである。
 1995年に有志らが「床鍋をなんとかせな!」と声を上げてから施設オープンまで、実に足かけ9年。「この間もたれた話し合いは100回どころではありません」(大﨑施設長)

待望の夢トンネル開通へ
~主役はあくまでも住民~

 行政のスタンスについてふれてみる。
 「村はあくまでもサポートに徹する」と当時の担当者は住民との会合の際に話しているが、このスタイメージ 10ンスは現在でも変わっていない。
 一見、つきはなした冷たい言葉のように感じられるのだが、そうではない。集落の孤立を根本から解決した「床鍋倉川夢トンネル」(写真左)整備の例を見てみよう。
 現在、津野町役場で森の巣箱を担当している中山幸一さん(産業課・課長補佐。写真右下)はこう話す。
「当時の吉良史子(きら ふみこ)村長が、床鍋を元気にするためにどうしてもトンネルを通したいと高知県に何度も訴えて『ふるさと林道緊急整備事業』の指定を受けました。総事業費は約28億円です。そのうちの2億2,000万円が旧葉山村の負担、あとは県の負担です。ただ、100人程度しかいない集落のために全長1キロものトンネルを通すのかと議会が紛糾したと聞きました。吉良村長はかなり苦労したようです」
 ふるさと林道緊急整備事業の指定を受けたのは1998年。床鍋地区開発検討会が発足したのは1995年であるから、主人公である床鍋集落をまさに側面からサポートしようと動いていたことが推察される。イメージ 11
 実際、大﨑施設長も「吉良村長が床鍋にきて『夢のまた夢なんだけれどトンネルを通したいと思っているのよ』と言うんです。そんなことができるわけがないと床鍋の人間は誰ひとり本気にしていませんでした。でも、本当だった。やがて計画が発表されたのですが、私たちは涙がでるほどうれしかったですよ」と話す。
 夢トンネルは思いがけないプレゼントも運んできた。
 掘削作業中に「冷泉」がでてきたのである。森の巣箱は男女各室の中型浴場「巣箱の湯もうちょっとde温泉」(写真左下)を備えており、ここにはトンネルから冷泉を引いている。温泉の商標を取るため検査にだしたところ温泉成分が基準イメージ 12の8割にとどまっていて、惜しくも温泉を名乗ることができなかったそうだ。だから「もうちょっと」で温泉である。
 さて、森の巣箱の施設プランは住民らが「想い」を込めてつくったものだが、施設所有者は津野町である。
 1階に居酒屋・コンビニ、厨房、男女浴室、シャワー室3室、貸し教室、2階には宿泊室5部屋(各室6人まで収容可)、洗面所、リネン室などが配されている。
 構造材など多くは学校当時に使用されていたものを使っているが、腐食した部分など再生に当たっては一部を取り壊して新たにした。また「大きすぎて使いきれない」という住民の意向を受けて1・2階をそれぞれ1教室ぶん削って建物の規模を縮小している。イメージ 13
「施設整備の総額は約9,000万円です。うち改築工事費は8,500万円で2分1は高知県市町村活性化補助金を活用し、あとの2分の1は旧葉山村が負担しました。また、関連工事費の約500万円も旧葉山村の負担です。床鍋の人たちには指定管理者として運営をお願いしていますが、指定管理料はお支払いしていません。自由裁量で運営していただきたいので営業時間などをふくめて一切をおまかせしています。十分にがんばっていただいていますが、これからもよりいっそう発展していただきたいと思っています。ただ、オープンしてから10年以上たっていますので補修・修繕が必要になるか所が今後、多くなってくるだろうと思うのです。もちろんその費用は町が負担します」(中山さん)と言うように、床鍋にはいつも心を向けている。

誰がやってくれると言うのか
~自らの課題は自らで解決~

イメージ 14 話し合いの過程で廃校活用に反対する人はいなかったのだろうか。
「過疎と高齢化が進む地区だったので仕方がないとは思いますが、住民たちは無力感に捕らわれていました。行政との話し合いの最初のころ『学校はどうしましょうか?』と問いかけられて、一人が『そんなものは壊してくれ』と答えました。貧乏くさいボロボロの建物を残しておいてなんになるというわけです。ほかの住民たちは何も言わないので会議がその方向に傾きそうになりました。私は思わず『床鍋をよくしようとみんなここに集まっているのではないのか。何も考えていない段階であっさり壊すという結論をだしていいのか』と大きな声をだしてしまいました。実現しないような夢でもいいから、まずそれをみんなで語って、そこに向かうためにはどうすればいいのかを考えよう。こうしたい、ああなりたいと自分たちの将来についてもっと積極的に話そう。遠慮している場合ではない、ものを言わないのは床鍋の悪い癖だと」(大﨑施設長)
 蛇足かもしれないが、この時点で大﨑さんは自身が森の巣箱の施設長になることなど想像もしていない。参加した住民の一人にすぎないのだ。
 大﨑施設長はもと地元JAの職員で、イメージ 1558歳のときに津野町商工会の事務局長に就任し今年3月末に退職したばかり、現在65歳だ。施設長に就くのは地区長(≒自治会長)だとずっと思っていたそうだが、森の巣箱がオープンする数か月前に地区長から依頼されて受けたという。仕事をもっているときには終わってからの毎晩、また少しでも時間が空けば平日・休日にかかわらずいつでも駆けつけ森の巣箱を引っ張ってきた。現在は朝昼晩、毎日森の巣箱につめている。自身が采配している施設だが「床鍋が一丸となってやっている施設。私は床鍋が好きだからやらせてもらっている、今後も給料をもらうつもりはありません」と話していた。
 さて、今回の上編では廃校活用を決めるまでの経緯を詳報した。
 床鍋集落の軌跡には、他地域においても参考にできるヒントがちりばめられていると思われるのでいま一度、整理してみる。
 床鍋では有志たちがまず声を上げ、彼らは小さな気づきから「自分たちでできる活動」をはじめた。
 次の段階では集落住民たちが集まって行政を交えて話し合いを進めている。なかばあきらめていた住民たちを「夢を語ろう」と叱咤激励したのも住民、それだけ熱のこもった真剣な話し合いだった。葉山村はそうした彼らの姿勢を評価した。それは夢トンネル整備の事実に表れている。さらなるステップとして、床鍋の住民は「自分たちがやる」という姿勢を一段と強くして活性化プランをつくった。
 これだけの努力を積み上げて森の巣箱にいたっているのである。
 大﨑施設長は一般論としてもそうだと思うのですがと前置きしてから、こう話した。イメージ 16
「できないと否定するのではなく、どうしたらできるのかを考える。それでも行きづまるのです。だから支援を求めたくなるのですが『私たちはここまで実行していますけれど、この部分をサポートしていただけませんか』とはっきり言えないならば、がんばれと声をかけてもらうことすらできないでしょう。何もしない人間に手を差しのべようとする人などいませんよね。自分たちの課題は自分たちで解決しなければならないのです。ほかの誰がやってくれると言うのでしょうか?」
 床鍋の人々は森の巣箱へと歩む道のなかで、このような学びを体得してきたと言えよう。「人まかせではいけないのです」(大﨑施設長)
                  *
 次回<下編>では、森の巣箱はどのように運営されているのか、第2ステージの活動と将来ビジョンについてお伝えする。
 
*取材2016年8月8日・9日・10日
 記事作成・宇部芳彦(久慈市地域おこし協力隊)