独自の文化を地域おこしに 平庭闘牛物語[2]

独自の文化を地域おこしに
                              2016.10.27                             
平庭闘牛物語【2】――――――――――――――――          
 はじまりは塩の道のワガサ決め
  ― 関地区に残る街道ルートで往時をしのぶ ―
                                    
                                               

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 前回【1】では岩手県久慈市山形町が全国でも稀有な闘牛のまちであることを紹介しました。ではなぜ同地では、闘牛文化が興ったのでしょうか?
 そのはじまりは古く「塩の道」の時代、文献などで明らかにされていないので特定できないのですが、いまから200年以上前のことだと言われています。
 江戸時代、山形では主に堆肥を得るためや農耕用に、また荷物を運ぶ役牛などとして南部牛が飼養されていました。イメージ 2  
 久慈また野田など近隣の浜の海水を焚いて作った「塩」を南部藩の拠点である不来方(=こずかた。現・盛岡市のこと)など内陸部まで山形を経由して背に積んで運ぶこともまた、牛の大切な仕事でした(*右の塩の道ルート図は2002年3月に葛巻町観光協会山形村観光協会が発行した「『塩の道』野田街道」より)。
 この街道イメージ 4ルートは「塩の道」と呼ばれますが、塩の道を運搬する際に先頭に立つ牛のことを「ワガサ」と言ったそうです。
 ワガサを決めるために角の突きあわせをしたのが山形の闘牛のはじまりだと地元では口承されています。
 闘牛大会は1960年から1962年まで開催されましたが、安全上の課題などが指摘されその3年限りとなりました(*左の写真は1960年に開催した平庭闘牛大会の初回のようす)。
 しかし、山形村では闘牛大会を観光催事と位置づけて1983年に復活させ(つつじ場所、しらかば場所、もみじ場所と年3回開催。早春5月ころに行なわれているの若牛の練習会である「わかば場所」をふくめれば年4回)、現在に至っています。ちなみに、旧山形村久慈市と合併し久慈市山形町になったのは2006年のこと。
 さて、山形町内には関(せき)という地区が町の西側イメージ 5・盛岡寄りにあります。関地区と平庭(ひらにわ)高原を結ぶ県道29号沿いに塩の道の一部が往時を彷彿させる状態で残されています。
 現代の道路感覚からするととても幅が狭く一見、ケモノ道を整えただけの荒れ山道といった印象を受けますが、じっくりと身を置いて眺めると心がやすらいでいくのがわかります。塩を背にゆっくりと一歩一歩繰りだす牛の姿が目に浮かぶようです。
             県道29号沿いに残る「塩の道」。この道を牛の隊列が内陸へと歩みを進めました
                  
                      *原稿作成 宇部芳彦(久慈市地域おこし協力隊)