シリーズ移住定住その5 生きる力あふれる地で

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シリーズ移住定住
若者とシニアが集まるまちへ

シリーズ移住定住【その5】 2017.4.19

 生きる力あふれる地で

 岩手県北の太平洋に面した人口約4,500人の小さな村、野田村(のだむら)。ロードナイトと呼ばれるバラ色の鉱石を産出する日本唯一の土地でもある。初夏にはピンク色のはまなすが甘い香りを漂わせ、長くゆるやかな砂浜が続く十府ヶ浦(とふがうら)海岸に立つと太平洋の青がきらめく。
 2015年4月、佐々木雄治さんはこの地に移り住んできた。


復興進む野田村

イメージ 2  北に北限の海女の久慈市、南に北緯40度の普代村が接する野田村。ホタテやワカメなど海の幸に恵まれるとともに、ホウレン草や食用菊、山ぶどうなど「やませ」と呼ばれる偏東風の吹く冷涼な気候を活かした作物が栽培されている。
 数年前にNHKで放送された「あまちゃん」のオープニングバックのまっすぐな道に並行して列車が走る印象的なシーンは、野田村と久慈市をつなぐ国道45号沿線の風景だ。村内3つめの三陸鉄道北リアス線十府ヶ浦海岸駅」が今春3月25日に新たに開業するなど、東日本大震災からの復旧・復興が着々と進められている。イメージ 3
 東日本大震災津波で野田村は、村の住宅の3分の1が流出・損壊、死者37人を数えるなど壊滅的な被害を受けた。家屋がもっとも集中していた城内地区は一瞬のうちに見通しが開けたほどだった。防潮堤と防潮林の姿がなくなり、それまで見えなかった海が見通せるようになり商店の大半が倒壊、田畑も海水につかった。
「人は建物で場所を覚えているということがよくわかった。なにもなくなりガレキだらけになったらどこに立っているのか見当もつかなかった」と多くが話す。
 村をあげての復旧はすぐさま開始された。イメージ 4
 震災から数か月で村内5か所の応急仮設住宅を整備し約500人の住居を確保、11月には村内各地で仮設店舗がオープンした。
 それまでの「野田観光まつり」はその年8月「野田村復興イベント」として開催、翌年からは「野田まつり」に名称をあらため、昨年はかつてのように3台の山車パレードが通りを練り歩き、沿道に集った人々の顔を希望で満たした。イメージ 5
 流失した「のだ塩工房」は国民宿舎えぼし荘の敷地内に新しく建設され、2012年2月に稼動を再開。城内地区の高台には団地が設けられて2015年4月、新たな行政区「新町」(しんまち)としてスタートした。沿岸部の水田の復旧も進み、今年5月には昨年に続き2度めの田植えが行なわれる。
 産業振興に向けた新たな取組みもスタートしている。
 地元漁協や漁友会、役場などが一丸となって2014年7月に結成しイメージ 6た「荒海団」(あらうみだん)は、村特産の海産物の出荷やPRに力を注いでいる。
 昨年10月には「涼海(すずみ)の丘ワイナリー」も稼動。同ワイナリーでは村の第三セクター株式会社のだむらが、山ぶどうワインの醸造を行なっている。
「農家が一粒ひとつぶ思いを込めて大切に育てた山ぶどう、日本中の人々に野田村民の心を味わっていただく」と言うのは所長を務める坂下誠さん、シニアソムリエとして活躍していた経験を活かし山ぶどうワイン「紫雫」(しずく)の全国バリューを高めていく。





応援隊として新たな住民にイメージ 7

 2015年4月、この村に新たな住民が加わった。村役場で「のだむら復興応援隊」として働く佐々木雄治(ささきゆうじ)さん39歳だ(写真左下)。
 佐々木さんは千葉県船橋市の出身、産業振興課の農林班で「山ぶどう」産業の支援業務に就き山ぶどう農家と行政をつなぐ役割を担っているほか、水産商工班の民泊支援担当として受入れ民家を対象に講習会などを実施している。
 イメージ 8佐々木さんが移住してきた当初は「石川」姓を名乗っていた。その後、岩手県宮古市の女性と結婚し「佐々木」姓になり、昨年は待望の第一子にも恵まれた。
「父は岩手の生まれですから私のルーツは岩手と言えるかもしれませんね」と言う佐々木さん。旧姓の「石川」は、かの詩人「石川啄木」につながる家系だ。「盛岡市にある啄木記念館の系譜書きの片隅を見ると、父は啄木からの分家筋だとわかります」と笑う。
「移住者がふえて北三陸が元気になるように」と話す佐々木さんの言葉をここから先、ダイレクトにお伝えしよう。



一輪のはまなすに導かれ

 ―― 佐々木さんはなぜ野田村に移り住んでくることになったのでしょうか? そもそもから教えてください。イメージ 9
 佐々木 私は東京の会社に勤める営業職のサラリーマンだったのですが東日本大震災が起き、被災を伝えるさまざまな報道にふれるたびにひどく心が痛みました。人間として「他人事」にしておくのはどうなのか?と。
父が岩手の出身だったということもあり東北に思いをはせる日々を送っていたのですが、放射能除染の仕事があると聞き、会社を辞めて福島に行って働くことにしたんです。
 ――  え、福島で除染の仕事をやった?
 佐々木 いまでも福島で「あまちゃん」がテレビから流れてきたシーンが思い浮かイメージ 10びます。そんなとき、仕事仲間が「お前のルーツの岩手は福島より広い。岩手のほうが福島より復旧が進んでいないのだ」と言いました。その言葉に触発されて、北三陸の「あまちゃん」の地に行って何かの役に立ちたいと考えるようになったんです。
 ――  それで野田村にきたのですか。
 佐々木 移り住むには糧を得る仕事がなければ生きていけません。2014年に宮古市の「あすからのくらし相談室」というNPO法人に職を得て、岩手に住むことになりました。私は三陸鉄道北リアス線が走る宮古市以北の沿岸を北三陸と定義していますが、これでやっと北三陸の役に立つことができると思いました。
 このNPOは簡単に言えば、生活困窮者の暮イメージ 11らしをよりよくするための活動を行なっています。お金だけに頼らない自給自足の暮らしを実践し心豊かに生きていこうということを旗印に掲げ、市民からの相談を受けるなどさまざまな活動を展開していました。
 ――  奥さんとも宮古で知り合った?
 佐々木 彼女はNPOの活動にボランティアで参加していました。当時は面識がある程度でしたが、私が野田にきたときに交際がはじまって結婚しました。当初、妻は宮古で働いていましたので会えるのは週末といった具合でしたが、娘が生まれたいまは3人で野田に暮らしています。イメージ 12
 ――  佐々木さんご自身はなぜ宮古から野田へ移ってこられたのですか。
 佐々木 縁(えん)と言うしかないと思っています。宮古にいたときにNPOが用意してくれた借家は、私の前に船橋の「花の写真家」が期間限定で花の撮影のために住んでいた家だったんですね。私も船橋出身ですから奇遇だなと思って写真集に書かれていた船橋の電話番号に連絡したところ、その写真家は「野田の津波は言葉にできないほどひどかったけれど、津波にも負けなかった“はまなす”をぜひ見にいくべきだ」と言うんです。
 ――  はまなすは流されなかったんですね!!
 佐々木 初夏、6月末から8月ころまでのあいだだったと記憶していますが、3、4回、宮古から三陸鉄道に乗ってきて村を散策しました。くるたびになぜか「やまイメージ 13せ」がひどくて霞がかかり、土地勘もないのでどうしても見つけることができませんでした。
 でも最後にやっと、海岸に向かう途中にある「東屋」(あずまや。上写真2枚)のそばを流れる川のたもとに咲く一輪を見つけることができました。東屋も津波に流されず奇跡的に残ったと聞きました。その後、野田村が「復興応援隊」を募集していることを知り、一も二もなく「住もう」と思ったんです。
 ――  まさに「運命」に導かれたと言うしかない……、野田にくることは生まれたときから決まっていたのかもしれないですね。


まるで欧州のようだ
~飽くことのない日々~

 
 ――  復興応援隊としての日々はどのようなものでしょうか。
 佐々木 応援隊になって3年めになりますが、最初に手がけたのは移住者を獲得するための情報発信です。発信ツールは「のだ村に暮らすのだ!イメージ 14」というブログです。村の食や文化、イベントなどを紹介しているのですが、このブログに私も昨年度まで仲間の応援隊たちとかわるがわる記事を上げていました。
 ――  佐々木さんが扱ったのはどのような分野でしたか。
 佐々木 私はマニアックで(笑)、たとえば木の上に設けられたまるでゲゲゲの鬼太郎の家のような「ツリーハウス」(写真右)のレポートをしたり、「味噌玉」からつくる本物の味噌づくりを体験してレポートしたり。ジャガイモの保存食である「凍みイモ」(しみいも)づくりも記事にしています。私自身これらはとてもすばらしいと思っていて、自分が楽しいと思わなければ読む人もこれから住もうとする人も楽しくない、そうした方針で取材対象を決めてレポート記イメージ 15事をアップしました。
 ――  現在はどのような活動を行なっているのでしょう。
 佐々木 「山ぶどう」と「民泊」支援です。山ぶどうの推進支援に就いたのは、ブログの取材で農家さんと仲良くなったことがきっかけなんです。
 はじめて山ぶどう農園に行ったときに「まるでヨーロッパのようだ」と思いました。やませが吹き抜ける開放感がすがすがしくて、「山ぶどう農家の支援をやりたい」とわがままを言い続けていたら、涼海の丘ワイナリーができる大切な年だったこともあって「やってみろ」ということになり、昨年からこの活動をしています。
 村の11件の山ぶどう農家をまわり、業務では出荷調整などを手伝い、休みの日は栽培作業を手伝ったりしています。ちなみに、野田の山ぶどう生産量は八幡平市に続いて県内第2位なんです、作業を体験したいと関東などからわざわざ野田にやってくる人もいます。
 ――  民泊の業務は具体的にはどのようなものですか。
 佐々木 今年の2月23日と24日に「ベジタリアン」(菜食主義者)を迎えるための講習会を行ないました。最近はイスラム教の方々だけでなく台湾の人たちにもベジタリアンが多く、インバウンド(海外からの観光客)対応ができるようにと企画しました。イメージ 16
 料理に興味のある村の方々にも参加の間口を広げて、野田の新しい特産品開発にもつながればいいなと思って開催した講習会です。
 ――  新しい特産品?
 佐々木 岡田哲子さんというベジタリアン料理研究家を講師に招き、肉の代わりになる菜食主義者も食べられる料理について教えていただきました。1日めは座学、2日めは調理実習という構成で、「おからこんにゃくハンバーグ」など数品をつくりました。
 野田には豆腐を手づくりする家庭がありますから、副産物のおからが使える。野菜もワカメもすべて野田産、塩はもちろん「のだ塩」。すぐには結果がでないかもしれませんが、いつかはオール野田の素材を使った新しい独自の特産料理ができるかもしれない。早すぎる試みではないかと言われそうですが、可能性をみんなで共有することが大切だと考えて企画したんです。イメージ 17
 ――  プライベートの生活はいかがですか?
 佐々木 人口が少ない野田なので正直、手持ちぶさたになることもあるだろうと考えていたのですが、まったく飽きることがないですね。村内で過ごす休日はとても充実しています。
 ――  まったく飽きることがない?
 佐々木 はい、まったく。野田の方々は一人ひとり個性が強いですね(笑)。海があり山があり、夏が過ごしやすく冬が厳しいなど彩り豊かな自然がそうさせているのかもしれないのですが、おだやかな性格の人から明るい人、やさしい人、きびしい表情を崩さない人などさまざまで、それはもうバラエティに富んだ人がいっぱいいる。
 それと、仕事とプライベートのあいだにきっちりとしたラインを引きたくないと思うようになりました。これは、村のみなさんが私にとてもよくしてくれるからだと思っイメージ 18ています。勤務時間中に連絡が取れなかった農家さんには自宅に帰ってからも必要があれば電話しますし、休日にブドウの作業を手伝ったりすることは先ほど申し上げた通りです。村の行事にはできるだけ参加し、みなさんにさまざまなことを教えていただいています。呑みに誘っていただくこともあり、無礼講であれこれと意見交換させてもらうことも少なくありません。
 ほかにも休日は北三陸の各地、たとえば久慈の集客イベントなどにでかけて仕事の役に立つ感性を磨くようにしています。お腹がすくのでウニ弁当を食べて「うまい!」と言ったりすることも多いわけです(笑)。
 遊びと言えば遊びということになりますし、忙しいねと言われればそうなのかもしれませんが、私はこうした日々が楽しくてしかたない。復興応援隊として活動できる時間は今年を入れて最大でもあと3年、目に見えるなんらかの成果を残したいという思いも強くなってきています。


他人事を自分事にひきよせる
 ~ 魅力と表裏一体にある課題 ~

 
 ―― さてここからは、北三陸のいいところ、イメージ 19悪いところを移住者の目でストレートに指摘していただきたいと思っています。言いにくいことも、あえてお話いただければ幸いです。課題と思われることをディスカッションしてみましょう。
 佐々木 わかりました。私は現在、野田村民であり妻子も野田村民です。「復興応援隊を卒業しても北三陸で家族ともども暮らし続けていこう」と妻といつも話しています。ですから、地域の課題は同時に私にも直接はね返ってくる課題です。耳にさわる言葉として響いた場合は「当地がよりよくなることを一緒に考えていきましょう」という主旨の発言と捉えていただき、お許し願いたいと思います。
 ―― では、私から課題と思われることをあげさせていただきます。人口が少ない北三陸地域、久慈や野田だけに限ったことではなく、全国の「人口の少ない地方都市は閉鎖性がある」とはよく指摘されることです。私(=筆者)は高校卒業後に久慈を出て東京に行きました。自身の可能性を試したかったと同時に人間関係がわずらわしかったからです。でも、Uターンしてきたのですから結局は、親密な人間関係が恋しくなったと言えるかもしれない。
 佐々木 良い、悪いどちらにも転ぶむずかしい課題ですね。
 ある人が「小中高校のときにレッテルが貼られることがある」と言っていました。良いレッテルであれば問題ないのでしょうが逆のレッテルだった場合、はがすためには相当の努力が必要でしょう。しがらみのない都会に出て行ったほうが自由な人生を送れると考える若者もいるかもしれませんね。
 ―― Uターンして戻ってきてもレッテルがまだ残っていれば再度、出ていく可能性もありますね。イメージ 20
 佐々木 昔はこうだった、お前はこうだという決めつけをせず、若者がチャレンジしやすい環境、環境というより空気といったほうが正しいのかな? そうした空気をつくっていくように私たちは努力しなければいけないのかもしれませんね。
 関連して申し上げると、「出る杭は打たれる」ということもあると思います。これも野田や久慈など北三陸に限った話ではないのですが、いい意味で言う「地域のバカ者」がなにかにチャレンジしようと突出すると、「あいつはなんだ」という空気が生まれることがあります。
 都市部でもよくあることですが、人口が少ないと噂になり大きくクローズアップされてしまう可能性も高いだろうと思います。その結果、前向きなエネルギーがそがれることになるとしたら、とても残念なことですね。
 ―― おっしゃる通りですね。ほかに気になることはありますか?
 佐々木 北三陸の人はとてもやさしく、えんりょ深く、がまん強い。すばらしいことですし、私はこの地域の大きな魅力の一つだと思っています。
 しかし、えんりょ深さ、がまん強さの裏返してとして「待っていれば困ったことはいつか解決するかもしれない」というように、なかなか声を上げない傾向もあるだろうと思うのです。声を上げなければわかってもらえないことも多いイメージ 21し、いつまでもそのままになってしまっている課題もあるかもしれない。もっと積極的に声を上げることも一方では、時と場合によりけりでしょうけれども、必要なのかもしれないですね。
 ―― そうした傾向は久慈にもあると私も感じています。過ぎたえんりょは美徳を超えてマイナスをもたらすこともある。えんりょ深さとがまん強さ、積極性などコミュニケーションのありかたのバランスはとてもむずかしいですね。
 佐々木 私は「他人事」を「自分事」としてひきよせて考えてみるようにしています。東日本大震災のときは、最初に「心がざわついた」んですね。この言いようのない感覚はなんだろうと思い、震災は自分に起こった体験なのだと考えてみました。そうしたことで自分なりに理解して、解決方法というか対処のしかたを見つけてきたように思います。
 同じような手順で考えてみることでレッテル、出る杭、コミュニケーションなどについても、もしかしたらより良い方向が見えてくるのかもしれませんね。


誇りを胸に明日を拓く
- 北三陸のバイタリティ -

 佐々木 いろいろ申し上げましたが、この地のイメージ 22いちばんすばらしいところは「力強いバイタリティ」、特にも「お年寄りのバイタリティ」です。これにはもう、ただただ感動したと言うほかありません。
 ―― え? くわしく話していただけますか。
 佐々木 震災のときに私は東京にいました。一見、東京は便利そうですがなにかあったらおそらくひとたまりもない。人々の生活は砂の城のようにあっさり崩れてしまうだろうと思います。
 東北から遠く離れていてもすべての交通機関が完全にマヒして多くの帰宅難民が街をさまよった。大混乱の末、スーパーやコンビニには食料品すら並ばなくなった。たくさんのお金があったところでどうしようもなかった。便利に見えていただけだったことに気づいたんです。
 一方、北三陸そして野田には土地があり、収穫があり、お金持ちでなくても人間らしい生活が送れる。
 たとえば野田では、山からドングリをひろってきて団子にして食べます、ドングリですよ、都会の人には想像もつかないでしょう?
 久慈の久喜(くき)では、浜からコンブを拾ってきて干していて、それを「もって行け」と言って私にくれた。食べたら人工の「だし」なんかもう口にしたくないとイメージ 23思った。浜でイカの内臓を切り出し空中に放り投げて鳥にあたえ、一夜干しにして食えと言って海水で洗った身を私にくれた。
 野田では、お年寄りが杖をついて土のついた野菜を私の家にもってきた。五体満足の私が杖のお婆さんが育てた野菜を農作業もせずにもらうんです。罪悪感でいっぱいになった私に「いいから食べてくれ」と言う…。
 私は北三陸にきてはじめてこんな体験をしました、ほかでこんな体験をしたことはありません。衝撃的でした。
 このバイタリティを学ばなければいけないと思った。お年寄りの生きる力のすごさに圧倒された。みなさんは、物はもちろんですが心も津波で大きなダメージを受けています、家族を亡くした人もいます。でも、がんばってイメージ 24笑顔で生きている。
 本当の暮らしがここにある、そう思ったんです。
 ―― 久慈出身の私が「北三陸の力」を船橋出身の佐々木さんから教えていただいている…
 佐々木 日本でいちばんうまいものが食べられる場所は全国から物が集まる東京だと話している人に言いたい。では、北三陸の土のついた野菜や新鮮な魚介類を食べてみろ!と。
 本当のうまさをたたえている北三陸の味に驚くはずです。
 ―― 外を知る人、つまり佐々木さんのことですが、その目は気づきをもたらしくれる大切なものだとあらためて思っています。こんなにも北三陸のことを熱く語る人にはじめて出会いました。イメージ 25
 佐々木 自分の子どもは、この地に生まれたことに自信をもって生きてほしい。もちろん私も、誇りを胸にこれからを拓いていく決意です。
 応援隊卒業後は農業をベースとした自活への道を見いだしていきたいと思っています。
 一生懸命に楽しく生きて、次に続くよそ者が移住してくるきっかけに私がなれたなら、とてもうれしいですね。
 ―― 心のこもったお話の数々、ありがとうございました。
                                      
                                              
                             奥さんの「ゆうい」さんと
            

                      取材2017年4月17日
                                撮影・文/宇部芳彦(久慈市地域おこし協力隊)