シリーズ移住定住-その6 ふるさとで生きる

Bird’s- eye viewイメージ 19
シリーズ移住定住【その6】

 ふるさとで生きる  
                           2018.2.21

 「嵯峨豆腐店」代表の嵯峨大介(さがだいすけ)さん35歳(写真右)、東日本大震災の直前に故郷の岩手県久慈市山形町に戻り、祖母が昭和32年にはじめた豆腐店を受け継ぎ切り盛りするようになってから7年が過ぎた。山形町の現在人口は2,525人(平成27年国勢調査)。嵯峨さんは、祖母から教わった昔ながらの木綿豆腐の良さを訴えるとともに、白・紅・青の三色豆腐を商品化、自身で栽培する幻の山白玉大豆(やましらたまだいず)を使った豆腐を東京の百貨店で販売するなど、小さな故郷の味を全国ブランドに押し上げようと日々、努力を続けている。


とまらない若者の流出

 「地方創生」「地域おこし」の言葉が巷を駆け巡っている。
 人口減少が進み、地方の未来をつくるためには「移住定住を促進しなければならない」との声であり、国また多くの自治体などが人口減少抑制のために各種の施策を打ち出している。
 イメージ 14若者が都会へと流出するのは故郷に自身の望んでいる仕事がないこと、もっと言えば「仕事そのものがない」ことが大きな要因だと言われている。もちろん、たとえば大学がないため進学で地元を離れるケースなど理由はそれだけではない。しかし、進学するのも「いい職業に就きたいから」という動機に支えられているのであれば、結局は「仕事」という一語に帰着する。
 では、都会の職業環境はバラ色なのか?
 答えはノーでありイエスである。
 人が多いぶんだけ地方よりは仕事の絶対数は多いし、職種も富んでいる。しかしながら、希望の仕事に就ける可能性は努力や能力あるいは運しだいである。技術や能力があっても刹那的な働きかたをせざるを得ない人もいる。失業者も当然ながら多い。
 都会の給料は地方よりは多額かもしれない。しかし、アパートなどの家賃は地方より高い。そうであれば、自由に使えるお金は地方で働くことと似たような水準になるかもしれない。それであっても、新聞やテレビは「東京への一極集中はとまっていない」と伝えている。

 
特効薬はない

 都会への人口流出、とりわけ若者の流出はいまにはじまったことではない。
 実は、私(=筆者)もUターン者である。筆者は昭和40年代後半から昭和50年代、つまり高度経済成長からバブル経済につながる「経済成長期」に岩手県久慈市で小中高校時代を送ったが、当時も「父親は出稼ぎだ」とか「兄は東京で働いていて、盆正月にはお金をたくさんもって帰ってくる」と話す同級生が多かった。
 お前を養う余裕はないから自分で働いて食っていけと言われたとか、お金をいっぱい稼ぎたいからとか、この仕事は都会にしかないから、自分イメージ 15
の可能性を切り拓きたいからなどの理由をあげて若者は都会へ出ていった。かく言う筆者も、一花咲かせようと上京したうちの一人である。
 パーソナル(個人的)なレベルにまで都会へ出る理由を落とし込んで考えてみるならば(その人の育った家庭環境などさまざまな事情によって都会に出ざるを得ないこともあるし、田舎にとどまらざるを得ないこともあるだろう。それを承知のうえであえて言い切るけれども)、出るもとどまるも結局はその人の選択であり価値観である。人は、より幸せになろうと可能性を求めて生きるのだから。
 このように、人が都会へと出て行く理由はいまも昔も大差はない。
 しかしいま、日本中で少子高齢化が進んでいる。日本中が「この先、困ったことになる」と頭を抱えている。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という本まで書かれた経済絶頂期でさえ、おそらく日本中の田舎はその十分な恩恵にあずかれていない。長らく低迷してきた地方はいま、なおさら危機感を強め「移住定住を促進しよう」「若者の力で地域を元気にしよう」という声を大きくしている。
 都会に出て行った人、故郷で生きる人、誰にとっても自分の生まれた場所がさびれていくのは喜ばしいことではない。でも、それを解消する特効薬は見つかっていない。ならば、事例一つひとつを見て何かを感じるしかない。だから、今回もケーススタディを書き込む。


一時帰省が定住へ
~避難所でのありがとう~

 平成23年2月29日、東日本大震災の直前に嵯峨大介さんは生まれ故郷の山形町に「Uターン」してきた。
イメージ 16 近所の豆腐店が辞めるという店を譲り受けて、祖母ツナさんが26歳のときにはじめた「嵯峨豆腐店」は今年で創業60周年、嵯峨さんが受け継いで7年になる。
 ツナさんはもともと「炭焼き」をしていたため豆腐作りはまったくの素人だった。そのため基本に忠実な木綿豆腐(大豆をふんだんに使った腰のある、いわゆる昔豆腐)しか作れなかったが、だからこそ美味いと言われる地元で評判の豆腐店だった。
 昭和57年、久慈市と合併する以前の山形村霜畑(写真左上)で生まれた嵯峨さんは、地元の霜畑小学校(写真右下)、霜畑中学校、県立久慈高校を卒業して、東京・御茶ノ水明治大学に進学した。イメージ 17
 卒業後は自動車メーカーの「スズキ」に入社、営業職として各地のディーラーを訪問するなど忙しく飛び回る生活を送っていたが、思い描いていた社会人生活とのギャップに悩み退職した。嵯峨さんは「決めたら後先考えずとにかくやりきるという性格、エンジンが過回転を起こしたのかもしれないですね」と笑う。
 再就職を決めるまでの少しのあいだ落ち着いて今後のことを考えようと、一時的なつなぎのつもりで嵯峨さんは帰省した。
 その11日後に、東日本大震災が東北を襲う。
「震災で身動きがとれなくなり、先のことが真っ白になりました」(嵯峨さん) 
 東北のみでなく関東圏などでも被害は大きく、産業インフラもふくめて人々の生活がずたずたになった。東北新幹線も長期間、運転をストップした。山形町は停電したり水道水が白濁したりしたが、久慈市内でも内陸に位置しているため被害程度はほかの地区にくらべると軽微だった。イメージ 18
「ただ時間だけがありました。祖母はリウマチになり、一人では豆腐が作れなくなっていた。小さいころから食べてきた美味しい豆腐の作りかたを教わる機会はいましかないのかなと思いました」(嵯峨さん)
 教わりながら作った豆腐を、嵯峨さんは被害の大きかった野田村、釜石市宮古市田老地区、大槌町陸前高田市などの避難所に届けて回ったという。
「ありがとうの言葉をいただくうちに、祖母の豆腐を残したいという気持ちになってきて、これを仕事にすべきかもしれないと…かなり悩んだのですが、決心しました」
 こうして、平成23年6月「嵯峨豆腐店」の事業を引き継ぎ、同年10月に代表に就任して、嵯峨さんの故郷定住生活はスタートした。


苦悩を振り切って決断

 受け継ぐことを「かなり悩んだ」と言う嵯峨さん(写真左下)、震災から事業引き継ぎ開始の6月まで決意に3か月の時間を要しているわけだが、ここで豆腐店というビジネスを概イメージ 1観してみたい。
 一般的に、豆腐は長期保存がきかない。数万円などという単価はふつう考えられないため粗利も少ない。豆腐店の商売は、豆腐が日常の暮らしの中で消費される商品であるため近場の常連を相手に継続的・安定的に販売していく「地域密着型ビジネス」の代表格と言える。事業を大きく発展させるためには、よほどの設備をもって大量生産し、数を捌かなければいけない。大量に販売できる顧客数が見込めることが前提になるわけであり、見込みと実際の販売数が違えばあっというまに採算割れを起こす。
 祖母が50年来続けてきた老舗の豆腐店とはいえ、かつて7,300人(昭和35年)が暮らした山形町の人口は現在2,500人ほどになっている。嵯峨さんが祖母の店を受け継ぐにあたって悩んだのは当然である。
「受け継いだ」と表現するよりも、「起業した」という言葉をあてはめたほうが嵯峨さんの心境をより正確に言い当てているのかもしれない。
「嵯峨豆腐店・代表」という嵯峨さんの肩書からは、数人が働く組織の社長の姿を想像するかもしれないが、特別なことがイメージ 2ない限り人手を頼むことはない。嵯峨さんほぼ一人で豆腐作りから販売までのすべてを行っている。
「大学を卒業したのに、田舎で豆腐作りかという未練がましい気持ちも正直ありました」と当時を振り返る嵯峨さん、かなりの苦悩を振り切っての決断であったことがこの言葉からも伝わってくる。

 
従来スタイルを打ち破る

 「やるからにはやりきる」性格の嵯峨さんは店を受け継いでから、教わった豆腐作りにさらに磨きをかける。マーケット人口がどうであれ、基本はやはり「美味しい」と言われる豆腐を作ることにあるからだ。
 嵯峨さんはこの7年間、「本物の豆腐作り」に徹底的にこだわり続けてきた。
原料は国産大豆のみであり、使用するにがりは沖縄の天然にがりと瀬戸内海の天然にがりで、沖縄の天然にがりはわざわざ沖縄から取り寄せている。水も岩手の名水20選に選ばれている地元山形町霜畑にある「清水川湧口(写真左下)の水だ。
イメージ 3「大豆の使用量もおそらくほかの店の木綿豆腐の3倍くらいだと思うし、スーパーなどで売っている安価な豆腐とはくらべものにならないくらい多く使っている」(嵯峨さん)
 嵯峨豆腐店の現在の商品は、木綿豆腐、厚揚げ、ガンモドキである。
「三色」の濃厚木綿豆腐も平成27年に商品化した。
 その名の通り、白い豆腐、紅い豆腐、青い豆腐である。食紅は使っておらず、大豆の種類を変えることで色をだしている。白の「濃いもめん」は岩手県産のナンブシロメという大豆を使用、「薄紅のあんな」は希少な山形県川西町の紅大豆を、「濃いもめん青」に使っているのは国産高級青大豆だ。もちろん、これらイメージ 4もふつうの豆腐の3倍ほどの大豆を使用しており完全手作り。それぞれ単価は230グラムのもので1丁400円ほど、白・紅・青各2丁ずつを1セットにした「濃厚な手造り豆腐3種」も2,400円ほどで販売している。
 それだけにとどまらず、平成25年からは幻と言われている地元の「山白玉」大豆を自身で栽培しはじめた。全国広しといえども、自身で大豆を育てている豆腐店を寡聞にして筆者はほかに知らない。
 さらに特記すべきは、販売チャネルである。
 山形町の店舗に行って「豆腐をください」と言っても在庫しだいであり、その場で手に入れられる可能性は極めて低い。地元ではたとえば久慈市内の官公庁など、彼のイメージ 5豆腐の価値を認めてくれる人が多くいる場所に出向いて販売している。
 原材料にコストをかけ、手間暇かけて手作りした豆腐を人口が少ない山形町の店舗だけで販売しても、売れ残った場合、採算的にも精神的にもダメージは大きい。ちなみに、1回20キロの豆腐を手作りするのに3時間をも要すると言う。同店の豆腐は1丁230グラムのものと1丁480グラムのものの2サイズがあり、20キロをそれぞれのサイズに切り分けるそうだ。便宜的に480グラムのものだけに換算してみると、1回3時間の作業で商品化できる豆腐は40丁ほどである。効率的・合理的に量産している商品ではないことがすぐにわかる。イメージ 6
 そのため同店の豆腐は、盛岡市内の飲食店へ、テレビ東京の「虎の門市場」(=通販番組。WEB上の通販サイトもある)で、また東京および東京近郊の百貨店で開催されるイベントなどで随時、販売している。この3月からは、全国グルメの通販サイト「オンワード・マルシェ」でも販売を開始する。
 こうした販売方法は、店を引き継いだ当初から嵯峨さんが戦略としているもので、実際、彼が代表に就いた平成23年10月の時点で、盛岡市内の飲食店やホテルとの取引を開始している。
「山形町また久慈市全域であろうとも人口減少が進み、すたれていく一方です。従来イメージ 7のようにご近所さんに買っていただく個人経営の豆腐店スタイルに固執していては、商売を続けていくことが早晩むずかしくなる。私がここで生きていくため、あえてメインの販売チャネルを外に求めているんです」(嵯峨さん)
 祖母から教わった昔ながらの豆腐に「こだわり」という価値をプラスして、その価値に見合った金額を払うことをいとわない人を顧客に取り込もうという付加価値戦略である。



尖った個性が輝きを放つ

 三色豆腐の商品化にしても、地元をメインターゲットに据イメージ 8えない販売方法にしても、嵯峨さんのやりかたは地元の人たちの目には奇をてらったように映っているかもしれない。
「戻ってきて豆腐屋を継いだと思ったが、大介は何をやりたいのかさっぱりわからない」という声も漏れ聞こえてくる。嵯峨さんのために付言しておけば、決して地元をないがしろにしているわけではなく、地元マーケットを大切にしたいという思いもまた強い。しかし、古くからの豆腐店のありかたを常識とする地元の人たちにとってみれば違和感を覚えるのだろう。
 彼のやりかたはつまり、保守的な感覚からすれば「尖っている」わけだ。でも尖っているということは、その他一般に埋もれない個性を放つ。だから、注目される。
 昨年4月、日本イメージ 9テレビのグルメ・紀行番組「満点☆青空レストラン」で嵯峨豆腐店の三色豆腐が紹介された。結果、全国からの問合わせがあいつぎ、いつもの5倍の量の注文が入ってきた。地元の主婦ら数人を雇用して3か月のあいだ休みなく豆腐を作り続けて何とかこなしたという。


故郷の味を創りだす
 ~「幻」を全国へ~

 彼の挑戦はそれだけでは終わらない。
 現在、嵯峨さんは「クラウドファンディング」でさらなる道を切り拓こうとしている。クラウドファンディングとは、インターネット経由で不特定多数の人から組織やプロジェクトなどに対して資金の協力を募るもの。
 嵯峨豆腐店のクラウイメージ 10ドファンディングは、岩手に特化したクラウドファンディングサイト「いしわり」にプロジェクト概要を掲載。「久慈の在来品種『山白玉』を栽培して『嵯峨とうふ』を作る!~久慈のブランド豆腐として全国へ~」というタイトルで100万円の資金調達額(協力金額)を目標に募集している(募集締切平成30年3月30日)。
 なお、在来品種とは特定の地域に古くからあった特定の品種のこと、つまり山白玉は久慈特有の品種である。
 特有の甘みと深いコクを特徴とする山白玉は、かつて岩手県の奨励品種であったが病気に弱いため淘汰されていった。
 生産する人がいなくなり久しくなっていたこの山白玉に可能性を感じた嵯峨さんは、わずかに残る種を地元の農家などからわけてもらい店の前にある実家の畑で栽培しはじめた。また、近隣に協力者を得て、その人も自身の畑で山白玉を栽培してくれることになったと言う。平成25年のことだ。
 山白玉は4月あるいは5月に植えて11月に収穫するが、嵯峨さんと協力者の2人の収穫量は合計で70キロほど。収穫した山白玉でイメージ 11豆腐を作り、池袋、立川、府中、浦和など東京および東京近郊の百貨店など6か所で1丁1000円を少し超える価格で試験販売したところ好評を得た。一昨年からは、この山白玉の豆腐を「特濃もめん『幻』」(まぼろし)と名づけて、嵯峨豆腐店の商品ラインナップに加えた。
「どこで育ててもいいということではなくて、やはり久慈の気候と土のなかで山白玉は甘みとコクをたたえて育つのだと思います。これを使った、久慈の味を全国の人に食べてもらいたい」(嵯峨さん)
 しかしながら、収穫量はわずか70キロである。「幻」を全国発信するためにも山白玉の作付面積をふやしたい、地元の農家に生産をお願いする資金に充てたいというのが、クラウドファンディングで協力を呼びかけている理由である。そのほか、「絹豆腐も作ってくれ」という声に応えるための資金にも充てたいと話す。


もういちど都会に

 では、Uターン者として嵯峨さんは地域の現状をどのように捉えているのか、移住定住者をふやす方策についてはどのような意見をもっイメージ 12ているのか。
 ―― 故郷に戻ってきて最初に感じたことは何でしょうか、ストレートにお話しいただきたいと思いますが。
 嵯峨 まぎれもなく過疎化が進行していると思いました。たとえば、私は霜畑中学校を卒業していますが、生徒数が減ったため平成21年3月に閉校しています。
 人が減っているため、まず地元では商売になりません。そのため、外で売るためにただの豆腐ではなく、豆腐にこだわりという付加価値をつけて販売しています。いいものを作り、外へ発信していく。そういったやる気のあるかたに呼びかければ、人も集まるのではないでしょうか。そういった政策を自治体が率先していくべきだと思います。
 ―― 人口だけでなく、地域経済も縮小している?
 嵯峨 人口が減っているので、当然地域経済も衰退しています。私自身も豆腐屋を引き継ぎ7年目になりますが、とてもじゃないけれど生活できる状況ではありません。実家だから生活できています。いきなり移住定住といってもそう簡単なものではないと思います。
イメージ 13 いきなり移住定住してくれといっても無理があると思いますので、私はまず、都会の人にきてもらうことで交流の場としてはじめるのがいいと思っています。そこから地域経済が活性化するきっかけが生まれると思っていて、そのため、私は外への情報発信に力を注いでいます。
 ―― このシリーズのテーマは「移住定住」です。移住定住者をふやしていくためには何が必要だと考えていますか?
 嵯峨 先ほども言いましたように、外への働きかけが大事だと思います。移住定住のターゲットは、田舎で何かをやってみたいというやる気のある若い人がいい。そういった人がきてくれると田舎にエネルギーが生まれると思います。
 ほかに「Uターン者」をターゲットにするのもいいと思います。田舎のいいところを知っていますし、都会を経験したうえで田舎生活をしたいと思っている人もいると思うからです。
 そういった人たちを集める政策を自治体が考え、外に向けてどんどん発信していくべきだと思います。私自身も、どんどん発信していきたいと思います。
 ―― 将来の夢はありますか?
 嵯峨 東京に店を出すことです。
 ―― え?
 嵯峨 豆腐作りはここ山形町でいいかもしれません。ただ市場がありません。いいもの作って、それが売れる場所を作る。それが当面の目標であり、生きていけるようにするための術だと思います。そのために、外へ働きかけることを続けていきたいと思います。
 ―― なるほど、田舎の価値を知る人が誇りをもって生きていけるようになること、そして、地域の価値を外からきちんと認めてもらえるように努力すること、それが地域の活性化ひいては移住定住者増へつながるのだということでしょうか。
 嵯峨さんの絶え間ない挑戦が大きく花開くことを願っています。今日はありがとうございました。
                        取材日 2018年2月15日
                                 取材・文 宇部芳彦(久慈市地域おこし協力隊)