駆けまわった協力隊の日々 - 心に刺さる情報を -

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駆けまわった
    協力隊の日々
   
                  2018.9.6

 私、宇部芳彦(この「Bird's-eye view」ブログの筆者=右写真)は岩手県久慈市の地域おこし協力隊として今年2018年6月10日まで、3年間活動していました。
 宇部の卒業に際して、同じ久慈市の地域おこし協力隊員の田端涼輔氏が、宇部の卒業の直前にインタビューしてつくってくれた記事を以下に掲載します。
 さすがに同僚の協力隊員、田端氏は私の協力隊活動に対する考え方をとてもよく捉えてくれています。
 以下のインタビュー記事は、今年6月1日から4日まで久慈市内で開催した宇部の「卒業展示」(宇部's-eye View)の場で公開した以外に発表の場がありませんでしたので、このブログで改めて公開します。
 地方創生に興味のある人や携わっている人、地域おこし協力隊員などとして各地で活動している人たちに読んで楽しんでいただけたら嬉しく思います。
 
 
 
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 心に刺さる情報を
      わかりやすく 

 

                                      2018年5月20日収録
                 インタビュアー 田端涼輔(たばたりょうすけ)
                                      久慈市地域おこし協力隊 山根市民センター勤務

 
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   久慈市地域おこし協力隊 第1期生
   宇部芳彦(うべ よしひこ)
   任期:2015年6月11日~2018年6月10日 <3年間>
   *久慈市 山形総合支所 ふるさと振興課 2015年6月11日~2016年3月31日
   *久慈市 地域づくり振興課 2016年4月1日~2018年6月10日 
 
 
 
スキルを活かし
  全国の事例
をレポート
 

 
  
―― 宇部さんは2015年6月に久慈市の地域おこし協力隊員になりました。山形総合支所では「広報やまがた」の制作補助とFacebook久慈市山形町広報室」での情報発信、本庁の地域づくり振興課に異動してからは「広報くじ」の取材、また市ホームページに「協力隊通信」(協力隊員・集落支援員の紹介記事)や全国各地の「地域おこしケーススタディ」(市ホームページおよび宇部芳彦ブログ「Bird’s-eye view」に掲載)の記事をアップしてきました。
 3年間の活動を振り返ってみて、一言で言うとどんな3年間でしたか?

  

  宇部 あっという間に過ぎてしまったなという思いです。もっともっとたくさん取材して、元気や勇気のでるような全国の事例を市民のみなさんに紹介したいと思っイメージ 2ていましたが、なかなか思ったように事は運びませんでしたね。 
 
 久慈の課題に細部までぴったりとマッチするような事例は、当然ですがありえないので、おおむね共通しているだろうなと思うような事例を探し出すことに時間を費やすことが多かったですね。
 

 


閉校記念誌「蛍雪ながき年月を」
 
 ―― 宇部さんは久慈市の出身で、久慈高校を卒業して中央大イメージ 1学に進み、そのまま東京の出版社に就職して編集者として活動。途中、フリーライターしていた時期もあったと聞いています。久慈市の協力隊に就くまでは企画・編集の仕事一筋。だから、「スキルを活かして協力隊の仕事を進めるんだ」といつも言っていましたね。
 苦労したけれど、いちばん達成感があった活動はなんでしたか?

 

 宇部  昨年初夏から今年1月にかけて携わった久慈市立小国(おぐに)小学校の閉校記念誌「蛍雪ながき年月を」の編集協力の仕事ですね。

 山形総合支所で活動していたこと、そして私が出版社の出身であるということを思い出していただいたのだと思いますが、山形町の小国地域の住民のみなさんから「協力してもらえないか?」と声をかけていただいたこと自体、とても光栄なことでした。
 閉校記念誌は単行本で、地域のみなさんの学校への思いを記録するものであり、さらに、久慈市立図書館、久慈市立山形図書館、また岩手県立図書館などにも貸出し用として置かれるとともに、歴史的資料として長く保管されていくものです。

 私のスキルを最大限に発揮することが第一に望まれた仕事であり、地域の人たちの思いを乗せて時代を超えて残っていく本づくりの仕事です。
 創立から142年の長い歴史をもつ学校であり、大火で古い写真が焼失してしまっていたりするなど、さまざまな苦労がありましたが、それだけに、できあがった時の喜びはひとしおでした。地域のみなさんと学校で組織する閉校記念事業イメージ 16実行委員会・閉校記念誌部会のみなさんにたいへんお世話になりました。

 
 「学校がなくなって悲しい」のはその通りなのですが、悲しいという思いを前面に打ち出すのではなくて、「こんなに楽しかったんだよ」「僕らの学校はすごいだろう!」というみなさんの思いを伝えたいなと…。私は、いつもそう思って編集していました。
 3月24日の「閉校式典・感謝の集い」には「広報くじ」の取材でおじゃましていたのですが、当日いきなりのサプライズで「感謝状」を贈呈していただき感激しました。協力隊として働いていたことがあったなと思いだすたびに、このシーンがよみがえってくるのだろうなと思います。

 
 
 
5200人を取材?
 
  編集者の視点 ―

 
 ―― 宇部さんは前職が編集者ですが、これまでに取材したユニイメージ 3ークな事例や、インタビューした人の数はどれくらいでしょうか?
 

  宇部  ユニークな取材と言えば、20代あるいは30歳になったばかりだったかな…、米国のカリフォルニア州にあるクライオニクス(遺体の冷凍保存)ビジネスを行なっている研究所に行って、そこのトップに話を聞いたことがありますよ。
 
 彼は「off (死)をきっとON(生)にできる日がくる。われわれはそれを信じて寝る間を惜しんでONへの技術と最適な保存方法を研究しているんです」と、施設の設備はもとより所内にある彼の寝室まで見せてくれて、枕元の目覚まし時計を指さしながらそう説明してくれました。そのまなざしがとてもピュアで「やさしい人だな」と思ったことを覚えています。
 
イメージ 4 宇部 あと、取材した人数ですよね(笑)…。
 毎日1人あるいは1件の取材と数えれば、年間200人、あるいは件と言えばいいんでしょうか、それくらいはいっているでしょうね。
 数えたことはありませんが、23歳から49歳までとすれば5,200人(件)という計算になりますね。
 月刊誌をつくっていたころは、1日3人のインタビューにプラスして2施設の取材といったようなこともありましたから、それ以上になるかもしれません。
 これを、いちいち文章に起こすのですから、テレビドラマに出てくる徹夜で仕事をする編集者の姿は、あながちウソではないとイメージ 5いうことがわかると思います(笑)。
 
 
―― インタビューするときに心がけていることはどんなことですか?
 

 宇部 わかったふりをしないということです。
 もちろん、事前に取材対象の情報はできる限り入手しますし、資料があれば一生懸命に事前にそれを読み込みます。
 
 でも、いざ現場に行ったら一夜漬けの知識は役に立たないことが多い。その知識をふりまわしてみても、役に立たないどころかコミュニケーションを阻害します。これは経験上、言えることです。
 
 農協の取材に行ったときのことです。事前に1冊の単行本を読み下しまして「完璧だ!」(笑)と息も荒く乗り込みました。
 イメージ 6そうして、相手と会話のやりとりを開始したわけですが、ニュアンスが微妙に食い違うんです。インタビューが終わってから文字に起こしてみると、焦点がぼけてしまって、私も相手も何が言いたいのかわからなくなってしまった。
 
 相手は農業に数年取り組んでいる人であり、こちらはいわば「畳の上の水練」、つまり本当のことを具体的には何もわかっていない。相手が苦労して何年もかけて体得した学びと、一夜漬けの詰め込みが勝負になるわけがない。  
 
 だから毎回、相手の言いたいことを真剣に、謙虚に聞く姿勢を忘れてはいけないんですね。
 
 そうして、またここが逆説的になるんですが、いくら役に立たないことが多いからといって、取材対象の情報を事前に仕入れることを怠ってはいけないんです。これは、相手との共通言語を見つけ出すために必要なことなんです。
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 たとえば、「アンテナ」と言えなければ「テレビを映すために電波を受ける竿のようなもの…」と言い換えたりして説明することになりますが、まったく同じものをお互いがイメージして話しているとは限らないわけです。こうしたギャップを埋めるために、できる限り事前情報はインプットしておいて話を聞くほうが絶対にいいわけです。
 
 役に立たなくても勉強しておくこと、そして現場では相手が何を言いたいのか、真剣に話を聞くこと。聞き取りにくかったり、理解できなかったら「わかりません」「教えてください」「こういうことなんですか」と丁寧に聞き返すこと。「わからないのは恥」「恥ずかしい」という意識を捨てることが大切です。
 
 それでも、ニュアンス違いや間違いは起こるんです。人間ですから100%完璧はありえないわけですね(笑)。

 
 ―― では、文章をつくるときに心がけていることはどんなことですか?
 
 イメージ 18宇部 それはもう一言につきます。「わかりやすい」表現にするということです。実はこれがいちばんむずかしいことなんです。読者を常に意識すること。
 真剣な対話になると、専門用語など、どうしても難解な言葉が飛び交います。地域おこしの事例などの取材の場合は、聞くほうも聞かれるほうもお互い真剣ですから、いきおいその地方で使われている独特な言い回しや、特別な意味をもった言葉で熱心に話してくれることも多いわけです。
  
 しかし読者は、その人の話す内容を文字で読み取るわけで、声や顔の表情という情報は入ってきません。さらに、その人がどんな人なのかもわからないので、「なんでこんなことを言っているのか?」ピンイメージ 7とこないことが多いわけです。
  
 だから、目で追ったときにスムーズに情報が入ってくるように、文字のリズムを整えたり、表現を平易にしたり、喩えてみたり、あるいはわざと誰も理解できないような言葉を強調して目をくぎ付けにして、後の1行でやさしく説明してみたりといったように工夫していくわけです。
  
 そんなふうにして文章の流れをつくりながら、「話してくれている人の思いがにじみだす文章にしたい」と毎回、願いながら書き込んでいます。
 
 これも100点はないんですが、原稿を書くたびにどんどん上手くなっていることを感じています。「あんな表現ができたらいいなあ」と3年前にどうしても到達できなかったニュアンスを最近、書き込むことができるようになったりしています。人間いつまでたっても勉強ですね(笑)。
 

 
  ―― 市のホームページや「Bird’s - eye view」というブログを通して、久慈を見つめ、他の事例など様々な情報提供をしてくださった宇部さんですが、久慈についてお聞きします。
 東京と久慈の暮らしを比べて、久慈の良いところ、悪いところは?
 また、多くの地域の人たちとの出会いがあったと思いますが、宇部さんが気づいた地域の特徴などはありますか?

 
 
 宇部 海外また日本全国、そして久慈、どこも「すばらしい」と思います。
 どこにもその地域独自の自然があり、独自の産品もあります。日本で行ったことがない県は鳥取くらいですけれども、たとえば沖縄に海ブドウがあるように、久慈にはホヤがある。岩手県の冷麺がほしいと福岡の人から言われたこともあります。
  
イメージ 11 いずれにしても、自然、食、人のすべてに優劣はない。でも、その地域に流れるストーリー、あるいは創ってきた文化、人の生きざまはみんなそれぞれ違っているのだろうと思います。
 そうした物語に魅力があり共感を得ることができれば、たとえば「あまちゃん」がいい例ですが、全国から注目を集めますよね。ブログで取材した尾道市NPO代表理事は「人が人を呼ぶ」と言っていました。
 
 それから、出版社時代に毎年、取材に行っていた沖縄はUターンしたいという出身者が多いし、移住者も多い。恵まれた経済環境にあるわけではない沖縄ですが、沖縄の人は自分たちの故郷に誇りをもって自然体で街を歩いています、少なくても私の目にはそう映ります。
 
 やはり沖縄に移住者が多いのも、そこに暮らす人たちの紡ぎだす生きざまを見て、「魅力ある土地だなと」感じるからこそなんだろうと思います。簡単に言えば、「幸せそうな人が多いな」と感じれば「私もあそこに行こう」「戻ろう」と、人間ですからね(笑)。イメージ 8
 
 印象しか話せなくて申しわけありませんが、科学的に分析できればどこの土地も人口減少とか経済の落ち込みとか、課題を解決できているはずなので、やはり一つひとつのケースを見て何かを感じていくしかないのだろうと思います。
 
 つまり、そこに住む人たちが幸せそうにしている土地、あるいは幸せを感じている土地が「いいところだな」ということになるので、その考え方、あるいはそこで生きる人や課題解決に向けて活動する人たちの姿を伝えたいなと思ってはじめたのが「Bird’s - eye view」ブログであり、市のホームページに掲載している「地域おこしケーススタディ」なんです。
  
 もちろん、私自身は久慈が生まれ故郷ですから、久慈がいちばん良いところだ!と言いたいのですが、反面、故郷だからこそ、とんでもない田舎だと極端に反応してしまイメージ 9うときもあります(笑)。
 好きな土地であることには変わりはありませんが、なぜ好きなのかと言われても「何となく」としか説明できないので、私に久慈のことを語らせないでください(笑)。
 
 





やりたいこと
 できることを
 
  ―― 最後に協力隊や支援員の後輩たちに何かアドバイスを頂けないでしょうか。イメージ 14

 宇部 2015年に久慈市が地域おこし協力隊制度を導入して、4月に第1号の協力隊員が1人就き、私は2人目で6月に就きました。その後、順次、協力隊員がふえていったのですが、私たち2015年度に協力隊に就いた数人はいわゆる「第1期生」と呼ばれました。
  
 久慈市も初めての協力隊員の採用であり、第1期生の協力隊員の中にもどう動くべきか迷ったりする人間もいました。やるべきことが見いだせなかった協力隊員は悩みました。
 総じていえば、どう活動を進めるか、第1期生たちは模索しながら歩み続けてきたと言えると思います。
 
イメージ 13 私の場合は、幸いにも情報を扱うこと以外に能がなかったので、やることは明確でしたが、それでもいま振り返ってみれば、もっと数多くのケーススタディを取材すべきだったと思っています。
 
 たとえば、人口減少の中で地域交通システムをうまく導入している自治体や団体あるいは住民グループのケースとか、農家レストランの経営ケーススタディ取材とかやるべきことはあったはずなんですが、躊躇しているうちに時間があっと言う間に過ぎていってしまいました。
 
 だから、これからも活動をする協力隊員また集落支援員のみなさんに、僭越ながら何か話すとすると、「迷っている暇があったら、やりたいこと、そして、できることをやるべきだよ」と言いたいですね。
 やみくもにやれということではなくて、ある程度の気持ちが整ったら、所イメージ 12属課あるいは住民のみなさんに相談するなどして、できることから順次、アクションを開始したほうがいいよということです。
 
 それから、私のためにも精力的な活動をお願いしたいと思います。久慈市に活気があふれれば、巡り巡って私も豊かに生きていけますから(笑)。
 みなさん、がんばってください。
 
 ―― ありがとうございました





                             
        


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