シリーズ移住定住その5 生きる力あふれる地で

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シリーズ移住定住
若者とシニアが集まるまちへ

シリーズ移住定住【その5】 2017.4.19

 生きる力あふれる地で

 岩手県北の太平洋に面した人口約4,500人の小さな村、野田村(のだむら)。ロードナイトと呼ばれるバラ色の鉱石を産出する日本唯一の土地でもある。初夏にはピンク色のはまなすが甘い香りを漂わせ、長くゆるやかな砂浜が続く十府ヶ浦(とふがうら)海岸に立つと太平洋の青がきらめく。
 2015年4月、佐々木雄治さんはこの地に移り住んできた。


復興進む野田村

イメージ 2  北に北限の海女の久慈市、南に北緯40度の普代村が接する野田村。ホタテやワカメなど海の幸に恵まれるとともに、ホウレン草や食用菊、山ぶどうなど「やませ」と呼ばれる偏東風の吹く冷涼な気候を活かした作物が栽培されている。
 数年前にNHKで放送された「あまちゃん」のオープニングバックのまっすぐな道に並行して列車が走る印象的なシーンは、野田村と久慈市をつなぐ国道45号沿線の風景だ。村内3つめの三陸鉄道北リアス線十府ヶ浦海岸駅」が今春3月25日に新たに開業するなど、東日本大震災からの復旧・復興が着々と進められている。イメージ 3
 東日本大震災津波で野田村は、村の住宅の3分の1が流出・損壊、死者37人を数えるなど壊滅的な被害を受けた。家屋がもっとも集中していた城内地区は一瞬のうちに見通しが開けたほどだった。防潮堤と防潮林の姿がなくなり、それまで見えなかった海が見通せるようになり商店の大半が倒壊、田畑も海水につかった。
「人は建物で場所を覚えているということがよくわかった。なにもなくなりガレキだらけになったらどこに立っているのか見当もつかなかった」と多くが話す。
 村をあげての復旧はすぐさま開始された。イメージ 4
 震災から数か月で村内5か所の応急仮設住宅を整備し約500人の住居を確保、11月には村内各地で仮設店舗がオープンした。
 それまでの「野田観光まつり」はその年8月「野田村復興イベント」として開催、翌年からは「野田まつり」に名称をあらため、昨年はかつてのように3台の山車パレードが通りを練り歩き、沿道に集った人々の顔を希望で満たした。イメージ 5
 流失した「のだ塩工房」は国民宿舎えぼし荘の敷地内に新しく建設され、2012年2月に稼動を再開。城内地区の高台には団地が設けられて2015年4月、新たな行政区「新町」(しんまち)としてスタートした。沿岸部の水田の復旧も進み、今年5月には昨年に続き2度めの田植えが行なわれる。
 産業振興に向けた新たな取組みもスタートしている。
 地元漁協や漁友会、役場などが一丸となって2014年7月に結成しイメージ 6た「荒海団」(あらうみだん)は、村特産の海産物の出荷やPRに力を注いでいる。
 昨年10月には「涼海(すずみ)の丘ワイナリー」も稼動。同ワイナリーでは村の第三セクター株式会社のだむらが、山ぶどうワインの醸造を行なっている。
「農家が一粒ひとつぶ思いを込めて大切に育てた山ぶどう、日本中の人々に野田村民の心を味わっていただく」と言うのは所長を務める坂下誠さん、シニアソムリエとして活躍していた経験を活かし山ぶどうワイン「紫雫」(しずく)の全国バリューを高めていく。





応援隊として新たな住民にイメージ 7

 2015年4月、この村に新たな住民が加わった。村役場で「のだむら復興応援隊」として働く佐々木雄治(ささきゆうじ)さん39歳だ(写真左下)。
 佐々木さんは千葉県船橋市の出身、産業振興課の農林班で「山ぶどう」産業の支援業務に就き山ぶどう農家と行政をつなぐ役割を担っているほか、水産商工班の民泊支援担当として受入れ民家を対象に講習会などを実施している。
 イメージ 8佐々木さんが移住してきた当初は「石川」姓を名乗っていた。その後、岩手県宮古市の女性と結婚し「佐々木」姓になり、昨年は待望の第一子にも恵まれた。
「父は岩手の生まれですから私のルーツは岩手と言えるかもしれませんね」と言う佐々木さん。旧姓の「石川」は、かの詩人「石川啄木」につながる家系だ。「盛岡市にある啄木記念館の系譜書きの片隅を見ると、父は啄木からの分家筋だとわかります」と笑う。
「移住者がふえて北三陸が元気になるように」と話す佐々木さんの言葉をここから先、ダイレクトにお伝えしよう。



一輪のはまなすに導かれ

 ―― 佐々木さんはなぜ野田村に移り住んでくることになったのでしょうか? そもそもから教えてください。イメージ 9
 佐々木 私は東京の会社に勤める営業職のサラリーマンだったのですが東日本大震災が起き、被災を伝えるさまざまな報道にふれるたびにひどく心が痛みました。人間として「他人事」にしておくのはどうなのか?と。
父が岩手の出身だったということもあり東北に思いをはせる日々を送っていたのですが、放射能除染の仕事があると聞き、会社を辞めて福島に行って働くことにしたんです。
 ――  え、福島で除染の仕事をやった?
 佐々木 いまでも福島で「あまちゃん」がテレビから流れてきたシーンが思い浮かイメージ 10びます。そんなとき、仕事仲間が「お前のルーツの岩手は福島より広い。岩手のほうが福島より復旧が進んでいないのだ」と言いました。その言葉に触発されて、北三陸の「あまちゃん」の地に行って何かの役に立ちたいと考えるようになったんです。
 ――  それで野田村にきたのですか。
 佐々木 移り住むには糧を得る仕事がなければ生きていけません。2014年に宮古市の「あすからのくらし相談室」というNPO法人に職を得て、岩手に住むことになりました。私は三陸鉄道北リアス線が走る宮古市以北の沿岸を北三陸と定義していますが、これでやっと北三陸の役に立つことができると思いました。
 このNPOは簡単に言えば、生活困窮者の暮イメージ 11らしをよりよくするための活動を行なっています。お金だけに頼らない自給自足の暮らしを実践し心豊かに生きていこうということを旗印に掲げ、市民からの相談を受けるなどさまざまな活動を展開していました。
 ――  奥さんとも宮古で知り合った?
 佐々木 彼女はNPOの活動にボランティアで参加していました。当時は面識がある程度でしたが、私が野田にきたときに交際がはじまって結婚しました。当初、妻は宮古で働いていましたので会えるのは週末といった具合でしたが、娘が生まれたいまは3人で野田に暮らしています。イメージ 12
 ――  佐々木さんご自身はなぜ宮古から野田へ移ってこられたのですか。
 佐々木 縁(えん)と言うしかないと思っています。宮古にいたときにNPOが用意してくれた借家は、私の前に船橋の「花の写真家」が期間限定で花の撮影のために住んでいた家だったんですね。私も船橋出身ですから奇遇だなと思って写真集に書かれていた船橋の電話番号に連絡したところ、その写真家は「野田の津波は言葉にできないほどひどかったけれど、津波にも負けなかった“はまなす”をぜひ見にいくべきだ」と言うんです。
 ――  はまなすは流されなかったんですね!!
 佐々木 初夏、6月末から8月ころまでのあいだだったと記憶していますが、3、4回、宮古から三陸鉄道に乗ってきて村を散策しました。くるたびになぜか「やまイメージ 13せ」がひどくて霞がかかり、土地勘もないのでどうしても見つけることができませんでした。
 でも最後にやっと、海岸に向かう途中にある「東屋」(あずまや。上写真2枚)のそばを流れる川のたもとに咲く一輪を見つけることができました。東屋も津波に流されず奇跡的に残ったと聞きました。その後、野田村が「復興応援隊」を募集していることを知り、一も二もなく「住もう」と思ったんです。
 ――  まさに「運命」に導かれたと言うしかない……、野田にくることは生まれたときから決まっていたのかもしれないですね。


まるで欧州のようだ
~飽くことのない日々~

 
 ――  復興応援隊としての日々はどのようなものでしょうか。
 佐々木 応援隊になって3年めになりますが、最初に手がけたのは移住者を獲得するための情報発信です。発信ツールは「のだ村に暮らすのだ!イメージ 14」というブログです。村の食や文化、イベントなどを紹介しているのですが、このブログに私も昨年度まで仲間の応援隊たちとかわるがわる記事を上げていました。
 ――  佐々木さんが扱ったのはどのような分野でしたか。
 佐々木 私はマニアックで(笑)、たとえば木の上に設けられたまるでゲゲゲの鬼太郎の家のような「ツリーハウス」(写真右)のレポートをしたり、「味噌玉」からつくる本物の味噌づくりを体験してレポートしたり。ジャガイモの保存食である「凍みイモ」(しみいも)づくりも記事にしています。私自身これらはとてもすばらしいと思っていて、自分が楽しいと思わなければ読む人もこれから住もうとする人も楽しくない、そうした方針で取材対象を決めてレポート記イメージ 15事をアップしました。
 ――  現在はどのような活動を行なっているのでしょう。
 佐々木 「山ぶどう」と「民泊」支援です。山ぶどうの推進支援に就いたのは、ブログの取材で農家さんと仲良くなったことがきっかけなんです。
 はじめて山ぶどう農園に行ったときに「まるでヨーロッパのようだ」と思いました。やませが吹き抜ける開放感がすがすがしくて、「山ぶどう農家の支援をやりたい」とわがままを言い続けていたら、涼海の丘ワイナリーができる大切な年だったこともあって「やってみろ」ということになり、昨年からこの活動をしています。
 村の11件の山ぶどう農家をまわり、業務では出荷調整などを手伝い、休みの日は栽培作業を手伝ったりしています。ちなみに、野田の山ぶどう生産量は八幡平市に続いて県内第2位なんです、作業を体験したいと関東などからわざわざ野田にやってくる人もいます。
 ――  民泊の業務は具体的にはどのようなものですか。
 佐々木 今年の2月23日と24日に「ベジタリアン」(菜食主義者)を迎えるための講習会を行ないました。最近はイスラム教の方々だけでなく台湾の人たちにもベジタリアンが多く、インバウンド(海外からの観光客)対応ができるようにと企画しました。イメージ 16
 料理に興味のある村の方々にも参加の間口を広げて、野田の新しい特産品開発にもつながればいいなと思って開催した講習会です。
 ――  新しい特産品?
 佐々木 岡田哲子さんというベジタリアン料理研究家を講師に招き、肉の代わりになる菜食主義者も食べられる料理について教えていただきました。1日めは座学、2日めは調理実習という構成で、「おからこんにゃくハンバーグ」など数品をつくりました。
 野田には豆腐を手づくりする家庭がありますから、副産物のおからが使える。野菜もワカメもすべて野田産、塩はもちろん「のだ塩」。すぐには結果がでないかもしれませんが、いつかはオール野田の素材を使った新しい独自の特産料理ができるかもしれない。早すぎる試みではないかと言われそうですが、可能性をみんなで共有することが大切だと考えて企画したんです。イメージ 17
 ――  プライベートの生活はいかがですか?
 佐々木 人口が少ない野田なので正直、手持ちぶさたになることもあるだろうと考えていたのですが、まったく飽きることがないですね。村内で過ごす休日はとても充実しています。
 ――  まったく飽きることがない?
 佐々木 はい、まったく。野田の方々は一人ひとり個性が強いですね(笑)。海があり山があり、夏が過ごしやすく冬が厳しいなど彩り豊かな自然がそうさせているのかもしれないのですが、おだやかな性格の人から明るい人、やさしい人、きびしい表情を崩さない人などさまざまで、それはもうバラエティに富んだ人がいっぱいいる。
 それと、仕事とプライベートのあいだにきっちりとしたラインを引きたくないと思うようになりました。これは、村のみなさんが私にとてもよくしてくれるからだと思っイメージ 18ています。勤務時間中に連絡が取れなかった農家さんには自宅に帰ってからも必要があれば電話しますし、休日にブドウの作業を手伝ったりすることは先ほど申し上げた通りです。村の行事にはできるだけ参加し、みなさんにさまざまなことを教えていただいています。呑みに誘っていただくこともあり、無礼講であれこれと意見交換させてもらうことも少なくありません。
 ほかにも休日は北三陸の各地、たとえば久慈の集客イベントなどにでかけて仕事の役に立つ感性を磨くようにしています。お腹がすくのでウニ弁当を食べて「うまい!」と言ったりすることも多いわけです(笑)。
 遊びと言えば遊びということになりますし、忙しいねと言われればそうなのかもしれませんが、私はこうした日々が楽しくてしかたない。復興応援隊として活動できる時間は今年を入れて最大でもあと3年、目に見えるなんらかの成果を残したいという思いも強くなってきています。


他人事を自分事にひきよせる
 ~ 魅力と表裏一体にある課題 ~

 
 ―― さてここからは、北三陸のいいところ、イメージ 19悪いところを移住者の目でストレートに指摘していただきたいと思っています。言いにくいことも、あえてお話いただければ幸いです。課題と思われることをディスカッションしてみましょう。
 佐々木 わかりました。私は現在、野田村民であり妻子も野田村民です。「復興応援隊を卒業しても北三陸で家族ともども暮らし続けていこう」と妻といつも話しています。ですから、地域の課題は同時に私にも直接はね返ってくる課題です。耳にさわる言葉として響いた場合は「当地がよりよくなることを一緒に考えていきましょう」という主旨の発言と捉えていただき、お許し願いたいと思います。
 ―― では、私から課題と思われることをあげさせていただきます。人口が少ない北三陸地域、久慈や野田だけに限ったことではなく、全国の「人口の少ない地方都市は閉鎖性がある」とはよく指摘されることです。私(=筆者)は高校卒業後に久慈を出て東京に行きました。自身の可能性を試したかったと同時に人間関係がわずらわしかったからです。でも、Uターンしてきたのですから結局は、親密な人間関係が恋しくなったと言えるかもしれない。
 佐々木 良い、悪いどちらにも転ぶむずかしい課題ですね。
 ある人が「小中高校のときにレッテルが貼られることがある」と言っていました。良いレッテルであれば問題ないのでしょうが逆のレッテルだった場合、はがすためには相当の努力が必要でしょう。しがらみのない都会に出て行ったほうが自由な人生を送れると考える若者もいるかもしれませんね。
 ―― Uターンして戻ってきてもレッテルがまだ残っていれば再度、出ていく可能性もありますね。イメージ 20
 佐々木 昔はこうだった、お前はこうだという決めつけをせず、若者がチャレンジしやすい環境、環境というより空気といったほうが正しいのかな? そうした空気をつくっていくように私たちは努力しなければいけないのかもしれませんね。
 関連して申し上げると、「出る杭は打たれる」ということもあると思います。これも野田や久慈など北三陸に限った話ではないのですが、いい意味で言う「地域のバカ者」がなにかにチャレンジしようと突出すると、「あいつはなんだ」という空気が生まれることがあります。
 都市部でもよくあることですが、人口が少ないと噂になり大きくクローズアップされてしまう可能性も高いだろうと思います。その結果、前向きなエネルギーがそがれることになるとしたら、とても残念なことですね。
 ―― おっしゃる通りですね。ほかに気になることはありますか?
 佐々木 北三陸の人はとてもやさしく、えんりょ深く、がまん強い。すばらしいことですし、私はこの地域の大きな魅力の一つだと思っています。
 しかし、えんりょ深さ、がまん強さの裏返してとして「待っていれば困ったことはいつか解決するかもしれない」というように、なかなか声を上げない傾向もあるだろうと思うのです。声を上げなければわかってもらえないことも多いイメージ 21し、いつまでもそのままになってしまっている課題もあるかもしれない。もっと積極的に声を上げることも一方では、時と場合によりけりでしょうけれども、必要なのかもしれないですね。
 ―― そうした傾向は久慈にもあると私も感じています。過ぎたえんりょは美徳を超えてマイナスをもたらすこともある。えんりょ深さとがまん強さ、積極性などコミュニケーションのありかたのバランスはとてもむずかしいですね。
 佐々木 私は「他人事」を「自分事」としてひきよせて考えてみるようにしています。東日本大震災のときは、最初に「心がざわついた」んですね。この言いようのない感覚はなんだろうと思い、震災は自分に起こった体験なのだと考えてみました。そうしたことで自分なりに理解して、解決方法というか対処のしかたを見つけてきたように思います。
 同じような手順で考えてみることでレッテル、出る杭、コミュニケーションなどについても、もしかしたらより良い方向が見えてくるのかもしれませんね。


誇りを胸に明日を拓く
- 北三陸のバイタリティ -

 佐々木 いろいろ申し上げましたが、この地のイメージ 22いちばんすばらしいところは「力強いバイタリティ」、特にも「お年寄りのバイタリティ」です。これにはもう、ただただ感動したと言うほかありません。
 ―― え? くわしく話していただけますか。
 佐々木 震災のときに私は東京にいました。一見、東京は便利そうですがなにかあったらおそらくひとたまりもない。人々の生活は砂の城のようにあっさり崩れてしまうだろうと思います。
 東北から遠く離れていてもすべての交通機関が完全にマヒして多くの帰宅難民が街をさまよった。大混乱の末、スーパーやコンビニには食料品すら並ばなくなった。たくさんのお金があったところでどうしようもなかった。便利に見えていただけだったことに気づいたんです。
 一方、北三陸そして野田には土地があり、収穫があり、お金持ちでなくても人間らしい生活が送れる。
 たとえば野田では、山からドングリをひろってきて団子にして食べます、ドングリですよ、都会の人には想像もつかないでしょう?
 久慈の久喜(くき)では、浜からコンブを拾ってきて干していて、それを「もって行け」と言って私にくれた。食べたら人工の「だし」なんかもう口にしたくないとイメージ 23思った。浜でイカの内臓を切り出し空中に放り投げて鳥にあたえ、一夜干しにして食えと言って海水で洗った身を私にくれた。
 野田では、お年寄りが杖をついて土のついた野菜を私の家にもってきた。五体満足の私が杖のお婆さんが育てた野菜を農作業もせずにもらうんです。罪悪感でいっぱいになった私に「いいから食べてくれ」と言う…。
 私は北三陸にきてはじめてこんな体験をしました、ほかでこんな体験をしたことはありません。衝撃的でした。
 このバイタリティを学ばなければいけないと思った。お年寄りの生きる力のすごさに圧倒された。みなさんは、物はもちろんですが心も津波で大きなダメージを受けています、家族を亡くした人もいます。でも、がんばってイメージ 24笑顔で生きている。
 本当の暮らしがここにある、そう思ったんです。
 ―― 久慈出身の私が「北三陸の力」を船橋出身の佐々木さんから教えていただいている…
 佐々木 日本でいちばんうまいものが食べられる場所は全国から物が集まる東京だと話している人に言いたい。では、北三陸の土のついた野菜や新鮮な魚介類を食べてみろ!と。
 本当のうまさをたたえている北三陸の味に驚くはずです。
 ―― 外を知る人、つまり佐々木さんのことですが、その目は気づきをもたらしくれる大切なものだとあらためて思っています。こんなにも北三陸のことを熱く語る人にはじめて出会いました。イメージ 25
 佐々木 自分の子どもは、この地に生まれたことに自信をもって生きてほしい。もちろん私も、誇りを胸にこれからを拓いていく決意です。
 応援隊卒業後は農業をベースとした自活への道を見いだしていきたいと思っています。
 一生懸命に楽しく生きて、次に続くよそ者が移住してくるきっかけに私がなれたなら、とてもうれしいですね。
 ―― 心のこもったお話の数々、ありがとうございました。
                                      
                                              
                             奥さんの「ゆうい」さんと
            

                      取材2017年4月17日
                                撮影・文/宇部芳彦(久慈市地域おこし協力隊)





シリーズ移住定住 その4 プロセスが若者ひきよせる

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シリーズ移住定住
若者とシニアが集まるまちへ
 
シリーズ移住定住【その4】 2017.3.21
 プロセスが若者ひきよせる
  
             尾道空き家再生プロジェクト

   瀬戸内の海を臨む坂のまち尾道。このまちを愛し活動をはじめた一人の女性の思いが大きな輪になって、多くの若者をひきよせている。
   一度こわしたら二度と取り戻せない風景…、空き家の再生を通して展開される数々の活動がこのまちの輝きをいっそうあざやかにしている。



坂と路地がつくる独自の景観

イメージ 2 古くから瀬戸内海の尾道水道に面した交通の要衝として栄えた尾道市。もともとお寺しかなかった陽あたりのよい山手と呼ばれる高台に、当時の豪商たちはこぞって茶園(さえん)と呼ばれる別荘を建てたという。
 明治に入り鉄道が敷かれると、本州の物資を集めて四国や九州への物流拠点としていっそうの繁栄を築き、ハイカラな洋館つき住宅や旅館、長屋などさまざまな建物が斜面地にへばりつくように建てられていった。
 尾道市の現在人口は約14万人。海に面した山陽線尾道駅南側には尾道水道と並行するようにアーケードが架けられた商店街が東方向へとのび、西方向には向島因島などへの客船が発着する近代的なポートターミナルビルそして桟橋の風景が広がっている。かつての倉庫群は自転車ごと宿泊できるサイクリストホテルがビルトインする複合商業施設へと活用されている。
 一方、駅北側の山手はクルマはおろかバイクでも入れないイメージ 3ような坂と細い路地が迷路のように入りくみ、その路地沿いにはさまざまな時代の建築物が立ち並んでいる。さながら、建物の博物館とでも表現すべきようなエリアだ。
 海そして坂と路地がつくりだす趣きある独自の景観は、このまちの存在をきわだたせている。
 しかし、山手の斜面地や平地の路地裏、商店街の空き店舗などを含めると駅から2km圏内に500件近い空き家があるのだという。
 その多くが長年の放置によって廃屋化してきており、不動産事業者も取り扱わないほどに価値が低いとみなされる物件も少なくない。さらに、接道義務(幅員が4メートルないし6メートル以上であることが要求され、原則として幅員4メートル未満のものは建築基準法上では道路として扱われない)を求める現在の建築基準法によって、一度こわしてしまえば建て替えまた新築は不可能になってしまう、それほどに細い路地に建てられた建築物が多い。


一人の主婦の決意から
スタートしたプロジェクト

 空き家の再生を通してまちなみの保全と次世代コミュニティの確立をめざし、多くの若者移住者を呼び込んでいるNPOが、このまちで活動している。「NPO法人尾道空き家再生プロジェクト」(以下、NPOと記述)だ。
 同NPOは現在、正会員、賛助会員、ボランティア会員など約200人によって構成されている。メンバーは地元住民をはじめNPOの活動を通して移住イメージ 4してきた人たち、県外また大都市圏の移住希望者などで、デザイナー、大工、商店主、芸術家、建築士、不動産事業者、大学教授、学生、主婦など幅広い人材が集まっている。
 その歩みは2007年、一人の主婦の豊田雅子(とよたまさこ)さん(写真右)が、「個性ある伝統的な空き家を自らの手で再生する」と決意したことに端を発する。
 以後、彼女の思いに賛同する仲間たちといっしょになって解体の危機に瀕していた山手や旧市街地などの空き家をDIY(Do it yourself= 自身らの手で日曜大工のようにして行なうこと)で次々と再生。2008年にNPO化し、2009年には尾道市から「空き家バンク」運営の委託を受け、それまで「鳴かず飛ばず」だった移住定住者数を飛躍的に増大させる。
 これまで、同プロジェクトが空き家バンクによって再生した物件および独自に手がけた再生物件のトータルは110軒を超えている。また、2012年12月からはゲストハウス「あなごのねどこ」を、今年2017年春には2つめのゲストハウス「みはらし亭」の営業を開始、補助金に頼らないNPO経営を実現している。


このまちを守りたい
~ 100人いれば100軒すくえる ~

 代表理事の豊田雅子さんは尾道市出身。大学進学で大阪にでて、学生時代からバックパッカーとして海外旅行によく出かけていたそうだ。卒業後は大阪で大手旅行会社に就職し、7、8年海外添乗の業務につき100回以上の渡航を経験した。
尾道は戦災を被っていないから古くからのまちなみがこわれていない。ただ、駅前の風景がどんどん変わっていって…」と振り返る豊田さん。
 海外、特に欧州の都市などには、めぼしい観光資源がなくても、その歴史的・伝統的な調和のとれた個性的な美しいまちなみをめざし、多くの観光客が訪れている。条例などによって建物の外観保全を義務づけている都市も多い。 
イメージ 5 一方、日本はどこの都市でも同じようなマンション、同じような店舗、同じようなビルが建ちならび、どこに行っても同じような風景が展開され、そのまち独自の魅力が失われつつある。
 海外添乗業務の経験を通しふるさとの良さを再認識するとともに尾道の魅力が失われることに危機感をもった豊田さんは、1軒でもいいから尾道らしさを守りたいと考え、尾道と大阪を行ったり来たりしはじめたという。
「6年たったころ、昭和初期に建てられたすてきな建物に出会ったんです。所有者のかたがこわすと言うので、ちょっと待ってくださいと言って買い取りました」
 結婚と出産を間にはさみUターンを果たした豊田さんが6年間の空き家探しの末に見つけたのが「ガウディハウス」(写真左)だった。
 「旧和泉家別邸」として1932年(昭和8年)に建てられたこの建物は随所にみられる装飾などから、ガウディハウスと以前から呼ばれていたそうだ。駅裏(北側)の斜面地に建つ10坪の洋館つき住宅で25年間空き家状態だった物件で、これを自ら再生しようと購入したという。
 一人の主婦が再生を決意して個人で物件を購入するという行動は、まわりの人々の心を動かす。
「地元の友人や私と同じようにUターンしてきた人たちが一緒にやろうと言ってくれました。また、ちょうどこのころ移住してきた人たちがカフェをはじめたり、空き家をたとえばアート活動に使いたいというように、空き家を使って自分のやりたいことをやろうという若者があらわれはじめていた時期で、そうした人たちも協力を申し出てくれた。大学教授や尾道と関わりのある建築家なども賛同してくれました」
 豊田さんの思いに共感する仲間たちの協力を得てガウデイメージ 6ィのハウスの再生は行なわれていく。不要になった家具の片づけや掃除だけで2か月もかかったという。
 人が集まることができる状態にすると、みんなで活動を活発化させようと会合を開いたり、空き家再生のための活動拠点として使用しはじめた。 
 このようにして2007年7月、任意団体「尾道空き家再生プロジェクト」の活動はスタートする。
 ガウディハウスを皮切りに、数々の物件の再生を手がけていくわけだが、再生のようすをブログなどで発信したところ、全国から興味をもった20代、30代の移住希望者などが多数連絡してきた。
 豊田さんは当時「100人が移住してくれば100軒の空き家がすくえる」と思ったと言う。こうして賛同者をふやしながら200人もの会員を擁する現在のNPOの姿へと至るのである。
 NPO法人尾道空き家再生プロジェクトの事務所は現在、「北村洋品店」(写真右上)2階奥に置かれている。北村洋品店も同NPOが再生を手がけ2009年に2月にオープンさせたものだ。
 1階は子連れママの井戸端サロン、2階は子供服のリサイクルショップになっている。駅裏の旧市街地の平地の20年以上空き家になっていた物件を1年以上かけて、市民100人以上が参加したワークショップによりリノベーション。NPOに所属する職人がノコギリの使い方を教えて母子で挑戦してもらったり、壁塗り体験のワークショップなどを開催して主婦や子ども、アーティスト、NPOのメンバーなどみんなが一緒になってオープンさせた。
「子育てお母さんたちの生活情報交流の場…今日は編み物などをしていらっしゃいますね。もちろん小さな子どももくるし、旅行者もくる。また、事務所には移住相談の人などもきます。まさに井戸端会議のサロンとして、おたがいに助け合えるような場所になればいいなと思ってつくったんです」(豊田さん)
 北村洋品店の再生イメージ 7を手がけているときに情報を入手し再生させたのが「三軒家アパートメント」(写真左)で、北村洋品店の3軒南側にある。風呂なし、トイレ共同という昭和の古いアパートをものづくりの発信拠点にしたもので、10部屋それぞれに工房、事務所、ギャラリー、カフェなどが入居、入居者自身がDIYで自由な空間をつくりだしている。入居を目的とする人ではなく創作活動をする人に活用してもらうことを目的に再生したものだ。北村洋品店とともに、かつての駅裏(旧市街地)エリアのにぎわいを取り戻したいとの思いで、新たな人のつながりをつくる場所をコンセプトにしている。イメージ 8
 再生事例をもう一つ紹介する。2012年1月に完成した「坂の家」(写真右)は、空き家を探している人や坂暮らしを検討している人に向けた坂暮らし体験ハウス。移住が決まったものの空き家を再生中で、まだそこに住めない人の仮暮らしハウスとしても利用できるように用意した。
「人に近い生活風景をもつヒューマンスケールのまち、それこそが尾道の魅力」(豊田さん)を体験してもらいたいと、駅裏斜面地の洋風長屋を再生したレンタルハウスで、利用料金は大人1人1週間1万5,000円、NPO会員は1万円。ただし、単なる観光での利用は控えてもらっている。


改修アドバイスから
現場作業までサポート

― 柔軟な対応で移住者ふやす ―

 同NPOの活動を通じて移住してきた人のトータルは、これまでに110軒あまり。2009年10月に市から委託を受けて運営している空き家バンク制度を通しての移住が約90軒、NPO単独の活動を通じての移住は20数軒。イメージ 9
 尾道市(*右写真は尾道市役所)の空き家バンクは1998年にスタートしたが、それまでは年に1、2軒程度の移住者獲得にとどまっていたという。  
 NPOが委託を受けてから現在までの期間は約8年間であり、空き家バンクを通しての移住獲得数は平均すると年11軒を超す計算になる。つまり、桁違いの数字を記録するようになっているわけだ。
「私たちが活動しはじめたころ、もちろん委託を受ける前ですが、100人くらいから移住のために空き家を探しているという相談があったんです」と豊田さん。自身が空き家を探して歩いていたので、当時は所有者の情報などを含めて口コミで教えてあげたりしていたという。そうした状況にあったので「何とかつなげてあげたい」と市からの依頼を受けた。
イメージ 10 当初、委託を受けたのは山手地区で、2013年からは国道2号線沿いおよび市道本通線などクルマの通り抜けができる道に面した平野地域が加わった。制度の仕組みは他の市町村で行なわれている空き家バンクと同様、NPOは契約業務にはタッチしておらず、物件所有者と希望者とのマッチングがメイン業務となっている。
 マッチングの流れの概略をみてみる。希望者はNPOに電話連絡後、事務所を訪れて閲覧申込書を記入する。記入した後、事務所に置かれている台帳やパソコンでの物件の閲覧を行なう。
 NPOはこの時点で「パスワード」を発行するので、2回目以降は自宅のコンピュータから市とNPOが共有しているWebで空き家情報の閲覧が可能となる。希望物件がみつかった場合、物件所有者に連絡し現地の内部見学を行ない、所有者(あるいは不動産業者を交えて)と希望者が当人どうしで契約を結ぶ。
 ではなぜ、同NPOが運営するようになってから桁違いの数字を記録するようになったのだろうか?
 それまで、登録されていた物件のリストはエクセル表だけだったと言うが、個別の物件情報を詳細につくりこんだ。
「写真、間取り、地図などを盛り込むとともに、5点満点で空き家のレベルを評価しています。掃除をすれば住めるというのは5点、廃屋に近いレベルは1点とか」(豊田さん)というように移住者の立場にたって情報の充実を図った。イメージ 11
 なお、相談者にはエリアの状況から説明をはじめるそうだ。毎月1回の「空き家相談会」もはじめた。移住希望者は不動産事業者また建築士などに無料で、移住や改修また契約に関しての相談を行なうことができる。
 そして、移住をふやした最大の要因は土日祝日も含めて柔軟な対応を行なっていることだと言う。
「移住したいという人は、仕事の休みの日に相談にくるケースが圧倒的に多いのです。現在は900人ほどの閲覧申込者がいて、新規者も毎月10人のペースでふえています」(豊田さん)。
 市からの空き家バンク運営受託は、移住者また物件所有者からの改修また改修支援の依頼を加速させた。
 そこでNPOは、2012年から新たに「おのみち暮らしサポートメニュー」として、新規移住者また所有者のハードルとなっていた空き家の改修や管理・運用を代行するサービスを開始した。
イメージ 12 新規移住者をサポートするメニューは、NPOスタッフが改修プランづくりや再生手法のアドバイスを無料で行なう「改修アドバイス」のほか、有料メニューとして建築士などが空き家の構造チェックなどを行なう「専門家の派遣」、NPOスタッフまたボランティアスタッフが片づけやゴミだしを手伝う「空き家片付け隊の派遣」、「改修作業補助」、「改修現場監督」、工具など個人がもっていない「道具の貸し出し」などである。
 空き家所有者へのサポートは、空き家の活用はしたいけれども運営・管理がむずかしいという所有者に代わりNPOが空き家の改修・管理を行なう「物件管理代行型」事業でのサポート、またNPOが所有者から物件を賃貸し、改修して物件を貸し出す「サブリース型」事業でのサポートである。


プロセスをイベントにする
~ まちへの愛着はぐくむ ~
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 尾道空き家再生プロジェクトの会員は20代、30代が中心になっている。会員は地元住民また同NPOの活動を通じて移住してきた人および移住希望者などで、日ごろの活動に積極参加する正会員のほかに、あまり参加はできないが賛同・支援する賛助会員、また「労力だけなら提供できる」という学生や主婦を対象にした年会費無料のボランティア会員から構成されている。会員には同NPOが実施する各種イベントの案内などを送っているが「案内する印刷物などは若者向けにデザインしています」と言う。すなわち「若者」を移住定住のターゲットに据えているのだ。
 その理由は「これからのまちの魅力づくりをいっしょになって考えてくれる人材として、若者に期待しているから」(豊田さん)だ。
 そうした活動の一つが「尾道建築塾」。
 尾道建築塾には「たてもの探訪編」と「現場再生編」の2つがある。
 たてもの探訪編は通称「まちあるき」と呼ばれ、NPO会員の大学教授や建築士などが講師になり、一般参加者とともに尾道のまちなみやユニークな建物を訪問見学する。建物オーナーの話を聞いたりもできる。現場再生編は、空き家再生の実際の作業を体験するプログラムで、移住を希望する若い夫婦などの参加も多く、親子で参加できるプログラムを盛り込んだ回もある。
 近年は「空き家再生!夏合宿」や「春合宿!」というように短期集中で「合宿」して空き家再生プロセスを体験してもらう企画も実施している。普段はなかなか参加できない人や学生などが参加の中心だ。たとえば一昨年行なわれた「尾道空き家再生!夏合宿 Summer School 2015」は6泊7日の合宿で別荘建築「みはらし亭」の床貼り、壁塗り、タイル貼りなどに取り組んだ。
 また、再生費用支援の機能ももつ「現地で空き家再生蚤の市」は、傾斜地物件などの家財道具を現場での蚤の市開催によってさばくイベントイメージ 14。急坂からの運びだしの負担が大きい再生側の労力軽減も果たしている。
 空き家に関する情報交換を行なうイベント「尾道空き家談議」(写真左)は、情報交換とともに地元でさまざまな活動を行なっている各分野の人と移住希望者などを緩やかに結びつけていくことを目的に開催しているもの。まちづくりに関わるゲストなどを招き、参加者どうしが交流を深めている。
 さらに、毎年3月には「尾道まちづくり発表会」を開催している。市民に尾道のまちづくりと空き家問題を理解してもらうためのシンポジウムで、空き家を再生した人、大学生、建築士など毎回さまざまな顔ぶれが登壇する。市民はもとより行政やまちづくり団体など多数が聴講している。
イメージ 15 なお、同NPOの活動は空き家再生だけにとどまっていない。
「空き地再生ピクニック」(写真左)と呼んでいるのがそれで、作業が困難なために手入れされていない空き地に有志で出向き掃除や草取りなどを行ない、小休止にはピクニック気分でお茶を飲んだり食事をしたりしながら空き地のロケーションを楽しむ。地域コミュニティのための手づくり公園や菜園、もぎ取り果樹園、花畑など空き地の将来的な活用方法も考える計画だという。
 以上のように尾道空き家再生プロジェクトは幅広いさまざまな活動を行なっているのだが、これらの活動に共通して見えてくるのは「プロセスを共有する」という姿勢だ。
 こうしたイベントをきっかけに尾道を訪れた人は、まちの魅力を知り、空き家再生作業を行ない、まちの今後について考える…、これらを経験した若者たちの心に、もちろんNPO会員も含めてだが、尾道への愛着が生まれないわけはない。
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そしてゲストハウス経営に
 ~ 次への準備も着々と ~

「移住してきた人たちは20代、30代が中心で、リタイアしてからという人はほとんどいません。東京都心や名古屋、大阪など県外からの移住者が半分、県内は福山や三原からなどさまざまです」と話す豊田さん。
 NPO法人尾道空き家再生プロジェクトの総収入は、ゲストハウス収入、物件の家賃収入、市からの空き家バンク運営受託金、会費また寄付金、建築塾などのイベント収入などで現在4,000万円ほど、なかでもゲストハウスからの収入はNPO経営を安定させる大きな柱になっている。 
 2012年12月に営業開始したゲストハウス「あなごのねどこ」(写真上および下)は、宿泊料収入によりNPOの経営を安定させるとともに若者の雇用をつくりだした。
尾道駅から徒歩約10分、商店街のなかほどにある「あなごのねどこ」には通りに面して「あくびカフェー」という喫茶店も併設した。奥行きが40mもあイメージ 17る細長いこの物件はNPOのメンバーが中心になって自分たちで再生したもの。細長いので「うなぎの寝床」ならぬ尾道の名産である「あなごのねどこ」と命名した。
ちなみに、ゲストハウスとは素泊まりの宿のことで、海外ではバックパッカー(リュック1つで格安な宿を泊まりながら長期的に旅をする人)がよく利用する宿の形態。
 今春オープンさせたゲストハウス「みはらし亭」(写真左下)も「あなごのねどこ」と同様NPOの安定経営のため、そして新規雇用の場として機能している。
 みはらし亭は尾道のまちを見下ろす風光明媚な高台に立地し、千光寺山ロープウェイの索道が屋根のすぐ脇を通っている。もともと尾道三山の一つである千光寺の境内に大正時代に建てられた別荘で、茶園文化を代表する建築物だという。昭和40年代にイメージ 18「みはらし亭」として旅館営業をはじめたが、営業を停止して長い年月が経っていたものをNPOが再生し、カフェを併設したゲストハウスとしてオープンさせた。
 2つのゲストハウスはともに1人1泊2,800円とリーズナブルな料金設定である。
尾道は通過型観光の側面が強いんです。数時間あるいは1日だけの滞在ではまちの良さがなかなかわからない。だから、あえて若い人が長く連泊できるようにゲストハウスにしました」(豊田さん)
 2つのゲストハウスまたあくびカフェーには3人のNPOスタッフを担当者として置いているほか、専属のアルバイトやパートなど20数人を雇用している。
 そしていままた、大型物件の再生が進行中だ。駅裏のもと旅館だった建物の大広間は50畳ほど。「この空間をイベント会場などスペース貸しすることを検討しています」と言う豊田さん、次なる展開への準備も着々と進められている。


日常のつながりこそがカギ
~ 夢を叶える環境づくりへ ~

 豊田さんへの取材は、予定時間を大きく超えてのロングインタビューになった。
しかし、どうしても「若者の移住定住」を成功へと導いている核心にふれたいと思い、多忙を極める豊田さんにさらに話を聞いた。以下にそのやりとりをダイレクトに記す。
イメージ 20
 ―― 多くの地方都市が若者に移り住んできてほしいと頭をひねっているわけですが、豊田さんの取組みが抜きんでて成果を上げているのはなぜだと考えていらっしゃいますか?
 豊田 すべての活動を一生懸命にやってきただけで、あらためてなぜ?と聞かれると考えてしまいますね。
 あえて言えば主婦目線と言うのかな…、NP
Oの事業としてやっていることではないんですが、普段からあたりまえに応援をしています。たとえばここ(北村洋品店NPO事務所)では、移住して起業した人たちの商品を使っています。パン屋さんをやっている人もいますからそこからパンを買う。コーヒーに使っている豆も移住してきた人が焙煎したものでそこから仕入れたものです。あと、たとえば仲間になりそうな人を紹介したり、起業したいという人には地元のキーマンを紹介したりとか。そのほか日々の交流も親密にしています。パーティをいっしょにやったり、お花見をいっしょにやったりとか、さまざま細かい小さな交流を積み重ねています。お互いに応援しあっているんですね。
 ―― なるほど、日々のつながりを大切にしているということですね。もしかしたら、そうしたことが移住定住者にとってはいちばん大切なことなのかもしれない。移住を決断する際の最大のキーは、まさにそれなのかもしれませんね。
 豊田 尾道に移り住んで飲食店をやっている人もいますし、映画館をやっている人もいます。絵やインスタレーションなど現代アート関係、また、陶芸や木工、ガラスなどものづくりに携わる人なども多い。この地で起業して夢を叶えようという若者が多いんです。
 ―― そうした人たちを日々のつながりのなかで応援していく…
 豊田 人が人を呼ぶと思っています。たとえばアート関係の若い人たちのつながりは強くて、尾道はいいところだから来いよというように声をかけたり…。最初に移り住んだ人たちがいきいきと暮らしているので、それを見た人たちがまた移り住んでくるようになりました。今後もそうなっていってほしいと思っていて、だから私たちは、日常のコミュニケーションもふくめてですが、これからも若者たちが夢にチャレンジしやすいような環境づくりに取り組んでイメージ 19いきたいと考えています。
               *
 坂と路地がどこにもない独自のアイデンティティを織りなしている尾道。このまちへの誇りを胸に、尾道空き家再生プロジェクトは今日も活動を続けている。

                                                               
                      猫の多い尾道は、猫のまちと呼ばれることもあるとか 

                        取材2017年2月28日
                                  写真/宇部芳彦、NPO法人尾道空き家再生プロジェクト
                                                                                         文・宇部芳彦(久慈市地域おこし協力隊)



シリーズ移住定住その3 オークフィールド八幡平

Bird's- eye view
シリーズ移住定住イメージ 1
若者とシニアが集まるまちへ 

シリーズ移住定住【その3】2017.3.7
 生きがい創出の拠点へ
   -  オークフィールド八幡平の挑戦  -
     
 2017年3月3日、岩手県八幡平市の日本版CCRC「オークフィールド八幡平」(はちまんたい)で「オークカフェ」が開催された。
 今回の「シリーズ移住定住その3」は、前回「その2」で紹介した日本版CCRCの考え方およびオークフィールド八幡平の概要に続いて、オークフィールド八幡平のコンセプト、運営の実際、そして移住してきたシニア入居者の生の声をお伝えする。東北初の日本版CCRCは何をめざしているのか?

                
DASH村をつくりたい
~やりたいことを実現する場に~

 人口約2万7,000人の岩手県八幡平市に、2015年12月にオープンしたオークフィールド八幡平(写真右下)。全国的にもいちはやく日本版CCRCのコンセプトを実現した施設として注目を集めている東北初の日本版CCRCオークフィールド八幡平の経営は、地元の株式会社アーベイン・ケア・クリエイティブ。イメージ 2
 シニアの移住定住を促進する日本版CCRC(*日本版CCRCのコンセプトの詳細は前回記事その2を参照)はどのような経緯で実現にいたったのだろうか?
「もともと私も、八幡平の自然の雄大さに惹かれて20数年前に東京から移り住んだ移住者なんですよ」と笑顔で話しはじめた山下直基(やました なおき)さん、昨年夏からアーベイン・ケア・クリエイティブの代表取締役を務めている(写真右下)。
「この地にDASH(ダッシュ)村をつくりたいねと、仲間がずっと以前から話していたんです。そんな夢ばかり一緒になって語っていたところ、山下お前その話を事業計画を立ててみんなの前でプレゼンしろ!ということになって…さあ、困ったなと (笑)」
 DASH村とは、日本テレビ系列で放送されたバラエティ番イメージ 3組「鉄腕!DASH!!」の中のコーナーの一つで、新たな村落を作るプロジェクト。タレントグループTOKIOの5人が地元の人などの協力を得ながら、民家の再生や農作物の栽培、動物の飼育などに励み、昔ながらの古き良き山村を再現し、そこでいきいきと暮らす姿が描かれていた。
 プレゼンに向けて山下さんはさまざまな資料などを手当たり次第に調べていたというが、CCRCというシニアの移住コミュニティのコンセプトにたどり着く。三菱総合研究所プラチナ社会研究センターの松田智生氏が提唱する「シニアが活躍する日本版CCRC」のコンセプトだ。山下さんは早速、東京に出向いて松田さんにCCRCについての話を詳細に聞いたという。
 これだ!と結論した山下さんは、地域も巻き込んで一緒に考えようと松田氏を八幡平に呼び講演してもらい、所属する法人はもとより市(行政)また地域住民への理解を求めるなどして実現に向けた歩みがスタートする。こうした試みによって、市との協力関係も築かれていく。たとえば、アーベイン・ケア・クリエイティブが主催する八幡平版CCRCの実施に向けた「ワークショップ」や「シンポジウム」などにも八幡平市が後援で名前を連ねた。また、2015年7月に西根地区市民センターで開催された「日本版CCRC構想勉強会」の主催は八幡平市である。
 このように地域をあげての協力体制のもと、2015年12月にオークフィールド八幡平はオープンした。事業主体はあくまでもアーベイン・ケア・クリエイティブであり、明確な事業責任あってこその信頼を創り上げていく。さらに言えば今後、第2期、第3期と事業展開していく計画だが、すでにその敷地もアーベイン・ケア・クリエイティブは確保・取得している。
 いずれにしても、イメージ 4オークフィールド八幡平の第1期オープンは八幡平の魅力を高めよう、よりよい地域をつくろうと行政や地域住民の理解を支えに「夢を叶えた」施設であると言える。
 まだまだこれからが踏ん張りどきとくり返していた山下直基社長だが、「政府が日本版CCRCを『生涯活躍のまち』と名づけたことは知っていると思います。私たちがめざすオークフィールドの姿もまさに生涯活躍のまちなんです。入居シニアも私たち職員も地域の人々もいきいきと暮らす拠点としてオークフィールドは存在していく。施設ですが施設ではないんです。やりたいことを実現する場所、いきいきとしたコミュニティをつくるソフト機能を担う誰にでも開かれた場にしていく」と目に力を込めた。



若者に負けずもう一花
~ 地域で働く入居者も ~

 「どのように運営しているのかぜひ見て行ってください」とインビテーションを受けてオークフィールド八幡平のレストラン「オークテラス」のようすを見学した。
イメージ 5 オークフィールド八幡平では入居者と住民が交流する企画の一つとして「オークカフェ」を毎週金曜日に開催していく。この日3月3日は、コーヒーまた茶菓とともにアートフラワーをつくる「暮らしの保健室もりおか 繭(まゆ)クラフト手づくり体験」が開催されていた。
 盛岡市でまゆクラフト・フラワーデザインの「工房夢繭*花」を主宰する江見夏恵さんを地域の住民、近隣の別荘地在住の人また入居シニアが囲み、一緒になり黄色いまゆを花中に用いたアートフラワーをつくっている。美味しいコーヒーは伊藤實さんイメージ 6が淹れる。伊藤さんも地域の住民であり、地元一のコーヒーマイスターとして知られる存在だ。
 茶菓には入居者手づくりのパウンドケーキ、そしてオークテラスシェフによる干し柿の抹茶揚げが提供された。この干し柿も地元の住民がオークフィードへ持ってきてくれたもの。ちなみに、オークテラスのシェフはかつて安比グランドホテルの料理長を務めた人。
「黄色いまゆがあるの?」「カイコは桑の葉を食べるけれども、桑の葉にはアンチエイジングの成分があるという研究をした人もいる」といった会話が飛び交う。実に和気あいあいとした交流風景であり、さまざまな知識が披露される場でもあった。イメージ 7
 「研究」という言葉にひときわ目を輝かせたシニアがいたので話を聞いてみた。名前は山下哲美(やました てつみ)さん(=写真左下)、奥さんのひろみさんとともに昨年6月にオークフィールドに移住してきたと言う。以下はそのやりとりだ。
 
 ―― 山下さんはおいくつですか?
 山下 90歳です、東京から女房と一緒にきました。
 ―― なぜここに移住してきたのですか
 山下 女房がぜひここに住みたいと言いましてね。私も一緒に下見に何回かきています。悩んだのですがきてよかった、正解でした。
 ―― 正解という理由は?
イメージ 8 山下  私は現役時代に環境工学の仕事(さまざまな環境問題を技術的に解決したり、環境を向上させたりする仕事)をしていましてね。ここは自然環境がすばらしいので、その環境を実際に、大げさに言えば地球規模で体感できるのです。そのほかにも、この地域の人々の生き方がピュアなことに感激しています、とても親切な人が多い。
 ―― そのほかに日常で面白いことはありますか?
 山下  ここオークフィールドには大学生がよくきます。研究成果を発表する講座を開催したり、あるいは研究材料を集めにくるんです。そうした熱心な大学生と議論したり、意見を交換したりしますがとても楽しいですよ。彼らの姿を見ていると私も負けてはいられない、私ももっと勉強してもう一花咲かせようと考えています。
 そうそう、今日はCCRCについての取材だとあなたはイメージ 9おっしゃいましたが、先日大学生がCCRCの研究にきました。私はCCRCの資料を集めて読み込んでいましたので、その大学生に教えてあげました、もちろん資料のコピーも渡しました。時間があればCCRCについていろいろと意見交換しましょうか(笑)。
 ―― ありがとうございます。奥さんはなにが決め手になって移住したいとおっしゃっていたのですか?
 山下 自然がすばらしいからと言っていました。綺麗な水と空気と景色、その中で呼吸していると、細胞の組成が入れ替わるようだと。私自身も若返ったように感じています。
 ―― この建物の外に出ての活動は、たとえばどのようなことを行なっていますか?
 山下 そうですね、東京の自宅の庭ではバラを育てていたのですが、こちらにそのバラを持ってきまして、となりの施設のところにそのバラを移植しました。施設ではとても喜イメージ 10んでくれて「山下ガーデン」と名づけてくれました。バラは5月から秋口まで咲いていましたから、少しは地域のためにお役に立てたかなとうれしく思っています。また今年も綺麗に咲いてくれるように、手入れをしないといけないなと考えていたところです。
 ―― となりの施設といいますと…‥となりの敷地にある特別養護老人ホーム富士見荘のことですね?
 山下  老人ホームと言うと失礼ですよ、私自身も90を超したシニアですから(笑)。
 ――  失礼しました。とてもお元気なので90歳とお聞きしたことを忘れていました。
 
 なお、山下哲美さんご夫妻はペットの犬も一緒に移住させ、居室に住まわせているそうだ。
 そのほか、入居者のなかには介護の資格をもつ80歳の女性もいる。その女性は近くの介護施設で介護イメージ 11士として働いているとのことで、まさに持てる力を地域のために発揮していると言えよう。
          *          
 当日オークテラスには薪ストーブが赤々と燃えていた。燃料はもちろん薪である。「薪割りは入居者に手伝ってもらっています」と職員の一人は言っていた。
 住居棟も、共用廊下部分にあえて緩やかなスロープ階段を設置し入居者の日常の運動などに取り入れているほか、居室内のトイレにも手すりは設けていない。「手すりは必要になればいつでも取りつける」と言う。住居棟とレストランを別棟にしたのも、入居者の外出頻度をふやすことが目的だ。イメージ 12
 自然の豊かさが決め手になったと山下ご夫妻も言うように、各居室には板張りのテラスがある。すべての居室のテラスは岩手山の正面に位置しているため、プライベートビーチならぬプライベートマウンテンとして岩手山の雄姿をいつでもわがものにできる。
「シニアの活力と知恵を地域で活かしていただき八幡平が活性化する、そうなるように私たちはチャレンジを続けていきます」と前を向く山下直基社長だ。
    
                         取材2017年3月3日
                                 写真・文/宇部芳彦(久慈市地域おこし協力隊)


シリーズ移住定住 その2 生涯活躍のまち

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シリーズ移住定住
若者とシニアが集まるまちへ
 

シリーズ移住定住【その2】 2017.2.22
日本版CCRCを知っていますか?
― シニアの力を地域づくりに -
    
   大方の地方は地域に活力をもたらす若者の移住定住者をふやしたいという思いが強いと思われるが、日本中が少子高齢化に悩んでいるのだから、それはたやすいことではない。すべての地方自治体が若者に移住してきてほしいということ、つまりそれは地方どうしが繰り広げる若者移住者の獲得競争が熾烈だということを意味している。
 それであればより可能性の高い、現実的な移住促進策を考えてみることもまた必要ではないのか? シニアをターゲットにする効果的な移住定住促進策はないのだろうか…。そう考えていたとき「日本版CCRC」のコンセプトにであった。
             

生涯活躍のまち
日本版CCRC

「東京圏をはじめとする地域の⾼齢者が、希望に応じ地方やまちなかに移り住み、多世代と交流しながら健康でアクティブな生活を送り、必要に応じて医療・介護を受けることができるような地域づくりを目指す」というのが日本版CCRCのコンセプト(考え方)だ。
 もともと日本創生会議(座長・増田寛也氏)が「首都圏で将来、介護難民が生まれる可能性がある」と指摘しCCRC推進を求めたことがきっかけイメージ 2になって、これを受けた政府の「まち・ひと・しごと創生本部」(本部長・安倍内閣総理大臣)は10回の審議を経て2015年12月に「生涯活躍のまち」構想と名づけ、その基本的な考え方や制度の方向性をまとめた報告書を作成し公表した。それが上記の日本版CCRC(=生涯活躍のまち)の考え方だ。
 従来の高齢者施設との違いは「健康なうちから入居」し「地域社会に溶け込んで多世代と交流・協働」することだと言う。

米国発のCCRC

  CCRCとはアメリカ合衆国で1970年代に登場した継続介護付きのリタイアメント共同体(Continuing Care Retirement Community)のこと。英文の頭文字をとってCCRCと呼ばれている。
 米国のCCRCは、高齢者が健康なうちに移住して新たなコミュニティを形成し、医療や介護が必要になってからもケアを受けて暮らし続けることができるまち。日常生活においては社会参加のメニューが用意され、健康支援また予防医学もプログラム化されていてできるだけ介護状態にならないようなシステムが張られている。現在、全米各地に約2,000か所あり、居住者は約70万人で富裕層が多い。市場規模は約3兆円に及ぶという。 イメージ 3
 この米国発のCCRCを日本流にアレンジして日本に導入しようというのが、先に紹介した「生涯活躍のまち」(=「日本版CCRC」)構想であり、政府は「地方創生の切り札」として推進する方針である。
 日本版CCRC構想の報告書には、つまり「日本流にアレンジ」しての展開モデルだと思われるけれども、たとえば入居者については50代以上で、東京圏からのほか近隣の都市からの転居も対象。米国では富裕層が入居するが、日本版CCRCでは厚生年金の標準的な年金月額で高齢者夫妻が入居できるモデルを基本にする。そしてサービス付き高齢者向け住宅を住居の基本とする。移住者と住民の交流が促進されるような拠点づくりにも配慮すること、さらに、空き家や空き施設など既存施設の活用も促す。また、地域包括ケアシステムとも連携させる…などが盛り込まれている。


検討する自治体が急増

 前述のように、まち・ひと・しごと創生本部は日本版CCRCの基本的な考え方や方向性を取りまとめた生涯活躍のまち構想最終報告書を2015年12月に公表したが、これを受けて各地方自治体が生涯活躍のまち構想を進めるにあたっては「地方版総合戦略」にこの構想を盛り込んだうえで基本計画を策定し、国と確認調整を行なうこととされている。
 岩手銀行シンクタンクである岩手経済研究所の発行する「岩手経済研究」(2016 年11月号)は「平成27年11月1日時点で生涯活躍のまち構想の推進意向がある地方自治体は全国で263団体、岩手県内では陸前高田市八幡平市雫石町矢巾町平泉町洋野町の6市町村が推進意向がある」と報イメージ 4じている。
 同誌はまた、「平成26年補正予算により生涯活躍のまち構想の関連事業に交付金(地方創生先行型交付金)を活用した地方自治体は、全国で37団体(5県32市町村)。27年度(地方創生加速交付金)は全国134団体(4県130市区町村)で、生涯活躍のまち構想の検討や推進を実施する地方自治体が全国的に増加している」と記述。この「関連事業に交付金」という意味は、「事業可能性調査への交付金」(=調査費用に交付金を使う)ということ。つまり、成立可能性を調査している自治体は平成26年度37、平成27年度は134に上っている。


生きがいを創出する
オークフィールド八幡平

 さて、岩手県内において先行している事例を紹介してみたい。
 それは、東北初の日本版CCRC「オークフイメージ 5ィールド八幡平」(=写真下)で、2015年12月1日に第1期が開設された。事業主体は、八幡平(はちまんたい)市で特別養護老人ホームなど各種の介護事業を手がける社会福祉法人みちのく協会を母体とする㈱アーベイン・ケア・クリエイティブ。
 八幡平市にある同施設はJR盛岡駅より東北自動車道を使い約40分、十和田八幡平国立公園に隣接し、南に岩手山、北に八幡平、東に姫神山を望む豊かな自然環境のなかに立地する。スキー場で有名な安比高原リゾートや八幡平リゾート、八幡平温泉郷などもクルマで数分から15分ぐらいと近い。
 八幡平版CCRCのオークフィールド八幡平は、サービス付き高齢者向け住宅(木造2階建て)全32戸の規模、そしてレストラン棟から構成される。各住戸周辺にはシェア農園(=写真下)があり、入居者はその農園を利用して自由に野菜や植物を育てるこイメージ 6とができる。また、旅のコンシェルジェが入居者の遊びをコーディネートするほか、地元の大学などと連携した各種学習プログラムや地元機関と連携したイベントなどの開催・支援も行なっていく。
「月刊シニアビジネスマーケット」(2016年4月号)誌は「入居者の平均年齢は74歳で男女比は半々。この後、第2、3期と計画が予定されており、総計80~90戸を完成させる」と報じている。
 できるだけ介護・医療を必要としない暮らしを目指しているが、必要とするときはクルマで1分の距離にある東八幡平病院そして母体法人が経営する特別養護老人ホームやケアハウスのほか、ディサービスセンターなどとの連携で在宅介護サービスを図るなど万全のサポート体制を敷いている。イメージ 7なお、別棟にあるレストラン「オークテラス」(=写真右)は予約制でランチ営業を行なっていて外部利用も可能としており、入居者と地域住民との日々の交流にも配慮されている…等々の運営を行なっている。
 入居条件は60歳以上。入居金は、敷金3か月分(5万8,000円×3か月分=17万4,000円)、そして自立の人の場合、家賃は5万8,000円(非課税)、食費4万9,500円(1日3食30日で計算した場合。税込)、水道代4,000円(固定)、管理費5万3,000円(非課税)で、合計月額利用料金は16万500円。なお、光熱費(電気代、ガス代)は実費となっている。
イメージ 8 オークフィールド八幡平の公式ホームページアドレスは「
http://urbane8.jp/」、また公式フェイスブックでは入居者の日々の活動のようすなどが伝えられている。 フェイスブックには、たとえばクリスマスに入居者と近隣の別荘地の人々と地元住民が一緒になりディナーを味わいジャズライブを聴いたようす、入居者が通っている太極拳教室の先生とともに入居者の太極拳の披露が行なわれたこと、入居者主催のアート教室、正月の新春朗読会、ビンゴ大会…などさまざまな活動が写真とともに公開され、入居者は地元住民また運営する事業主体と一体になり充実した日々を送っている、そうしたことがフェイスブックの笑顔の写真から見てとれる。
イメージ 9 オークフィールドのコンセプトは「生きがいの創出」である。
 ホームページには「創業者の想い」(社会福祉法人みちのく協会・前理事長/(株)アーベイン・ケア・クリエイティブ・前代表取締役の関口知男氏)として、このコンセプトが意味していることを具体的に書き込んでいる。多少長くなるが以下に抜粋してみる。まさに、至言である。
イメージ 10「医療・介護によるサポートに留まりません。私たちは介護の現場から一歩外へ出ていきたいと考えています。それは、シニアの方の余暇のお手伝いではございません。生きがいの創出こそが私たちの目指すことと考えております。
 誰かの役に立っている。誰かの役に立ちたい。人が再び立ち上がろうとするのはこのためではないでしょうか。たとえ引退した後であっても、元英語の教師であれば、ひきこもってしまった子供に自イメージ 12宅でゆっくり教えてあげることかもしれません。元金融マンであれば、これから起業する若者を支援することができるかもしれません。小さな畑であっても、そこを耕し、形の悪い野菜でも、無農薬でとびきり美味しい野菜を育ててみんなに食べてもらうことができるかもしれません。
 私たちはこれまで培ってきた皆様の貴重な経験を埋もれさせてはならないと思います。多くの経験をお持ちのシニアの方々に、もう一度地域を支える使イメージ 13命を担って頂きたいと考えております。それは最前線で若者と同様に働くことを意味するものではありません。みなさまのできる範囲での働きを意味しています。そして次世代へ皆様の知恵を伝承し、文化を継承していきたいと考えます」
          *
 そう、オークフィールド八幡平は施設ではあるけれども、単なる施設ではない。
 都市でビジネスを切り開いてきたシニア、専門技術やノウハウをもったシニア、高い人間力をもつシニアなど若者にはない能力をもつシニアは多数いる。そうであるならば、彼らの力は地域コミュニティの力になるはずだ。
介護保険を利用するから結局は行政の懐を痛める」との声には、「住所地特例」があることを紹介したい。介護保険では、住民票のある市町村が保険者(=保険料を負担する側)になることが原則だが、2016年4月から住所地特例がサービス付き高齢者向け住宅にも適用されることになった。これは、特別養護老人ホーム、有料老人ホーム、サービス付き高齢者向け住宅に入所する場合に高齢者が移住先に住民票を移しても、移す前の市町村が引き続き保険者となる制度のこと。
「そうであったとしても、われわれ地方は都会の老人の受け皿か?」と言う声も聞こえてきそうだが、仮に移住シニアが途中で病院や介護サービスを必要とするようになったとしても、医療機関や介護サービスを利用するのだから地域のケア機関などの経営にメリットをもたらす。地元住民の暮らしに必要な機関の維持が期待できるし、そこで働く人(地元住民)の雇用にもつながると思われる。
 新築である必要はないし、タウンである必要もない。遊休ハードの活用でもいいと生涯活躍のまち(=日本版CCRC)構想も示している。
 必ずしも地方自治体のみが開設するものでもない(実際にオークフィールド八幡平は株式会社の経営である)。民間の人々によってもこうしたコンセプトでの展開は可能で、空き屋あるいは閉店した商店など小さな規模の建物であろうと住居として活用し、地域のさまざまなケアシステムとの連携をイメージ 11図り、移住してきたシニアたちと一緒になって笑顔あふれる地域コミュニティを創りだしていく。         
    *         
 こうした考え方があり、すでに取り組んでいる事例があることを記憶に留めてほしい。地域づくりは若者だけに許された特権ではないはずだから。
                                   オークフィールド八幡平の全景
                                               
        
  
                           *使用したすべての写真はオークフィールド八幡平のようす
              写真提供・オークフィールド八幡平/文・宇部芳彦(久慈市地域おこし協力隊)



急速に拡がる いきいき百歳体操

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Topics  2017.2.3
 まちに活力 地域に笑顔
  - 急速に拡がるいきいき百歳体操 -

 高知市発の「いきいき百歳体操」が岩手県久慈市の地域住民グループに急速に拡がりはじめている。住民が主体となって運営する「いきいき百歳体操」の取組みは、健康のための体操という側面はもとより、地域コミュニティ活性化の効用も発揮しはじめた。久慈市内のいきいき百歳体操の取組みとはどのようなものなのか、もたらしている地域活性化効果とは?
 久慈市地域包括支援センターでいきいき百歳体操の地域導入推進と導入サポートを担当している髙松香(たかまつ かおり)さんに話を聞いた。


500人を集めた講演会
~市民体育館で盛況に~

 8月29日、久慈市民体育イメージ 2館に約500人もの市民を集めて「地域でつくるみんなの元気」講演会が開催された(=左写真)。
   主催は久慈市、共催は県北広域振興局、久慈市社会福祉協議会
 岩手県保健福祉部の西川博志氏による「楽しみながら健康づくりに取り組もう」と題した講演や、高知市健康福祉部の小川佐知氏による「いきいき百歳体操でめざそう!健康長寿のまち久慈」と題された講演、久慈市地域包括支援センターによる「久慈市の現状とこれからの取り組み」についての情報提供などが行なわれ、講演会は盛況のうちに幕を閉じた。
「いきいき百歳体操は、とことん住民主体のもの。地域グループなど住民のみなさんが主体になって運営しているものです。取り組まれている方々、体操しているみなさんの活き活きした笑顔を見るたびに本当にうれしく思っています」イメージ 3と言うのは久慈市地域包括支援センター(以下・支援センターと記述)で導入推進また導入時のサポートを行なっている主任看護師兼主任保健師の髙松香さん。

高知市から全国に波及

 いきいき百歳体操はもともと高知市が元祖で、平成14年に介護予防推進のために同市が開発したもの。0kgから2.2kgまで10段階に調整可能なオモリを手首や足首に巻きつけて、イスにすわりながら手足を動かす筋力運動が主体になっている。
 当初、体操の会場は高知市内2か所のみだったというが、その効用の高さなどから全国に拡がり、平成24年5月時点では高知市内外を含め全国50数市町村・1,500か所以上の会場で実施されるようになったという。
 岩手県内では平成27年から軽米町、平泉町、一関市、北上市陸前高田市の各地区グループが、昨年からは岩泉町そして久慈市内各地区の住民グループが取り組みはじめている。


市内24団体356人が実施
~ 台風被災乗り越えて ~

イメージ 4 支援センターがいきいき百歳体操を推進するのは高齢者数の増加と、それにともなう要介者数の増加をくい止めたいとの思いがある。元気な高齢者がどんどん減っていけば、地域活力が失われてしまうからだ。(*左写真は支援センターが入る保健福祉施設「元気の泉」)
 ちなみに、久慈市平成28年3月末時点の高齢者数は約1万1,000人(高齢化率29.6%)、うち要介護認定者数は2,262人(要介護認定率20.42%)。
 いきいき百歳体操は装着するオモリをふやしたり減らしたりできるので、元気な人から虚弱な人が体力をつけたいという場合まで無理なく行なえる対象間口の広い体操。熟年層また高齢者などがいつまでも長く元気に、地域のために活躍できるよう、そう願って支援センターはこの体操を推進することをイメージ 5決めた。したがって、単なる体操ではなく“いきいき百歳体操による地域づくり”というように“地域づくり“という言葉を付加したキャッチのもと推進している。
 市各地区への導入に際して、市民からの理解を得ようと行なったのが前述した市民体育館で8月29日に開催した講演会である。
 しかし、講演会の次の日の8月30日、台風10号久慈市を襲った。台風は市内の公共施設や商店、民家、道路などあらゆる建造物を全壊また半壊に追い込むなど、一人ひとりの暮らしを大きく傷つけた。(*上写真は台風10号の翌日の市内のようす) 
「市民のみなさんも私たち支援センターの職員も復旧が第一になったわけですから、正直、もうそれどころではないと思いました。でも、みなさんの思いは違っていました…、とてもうれしかった」と髙松さんは感激を隠さない。
 講演会では来場者に「いきいき百歳体操に興味があるか?」などの内容のアンケート用紙を配布し300人ほどが回答してくれた。300通のうち100通ほどが積極的に考えてみたいという意向を示していたという。
 地域展開をあきらめかけていた台風から1、2週間ほどたったある日、「私たちがグループを組んで百歳体操をやりたいのだけれど」という相談電話が飛び込んできた。その後は堰を切ったようにやりたいという連絡が続いたという。
 9月26日に支援センターは導入に向けた活動をあらためて始動。結果、2017年1月現在、市内24団体・356人がいきいき百歳体操を実施するにいたっている。  
イメージ 6 市中心部、長内町、小久慈町、夏井町、大川目町、宇部町、山形町内の各地区の住民がグループを結成し、それぞれ地区の公民館や役所の支所などを会場に週1回以上行なっているそうだ。なお、山根町は台風の影響がいまだ色濃いため現在のところ実施にはいたっていないが、地域住民は近々に取り組みたいという意向を示しているとのこと。
 いきいき百歳体操の効果を実感した住民の意思が急速に拡大したいちばん大きな要因であることに間違いはない。
 実際、山形町日野沢地区で「かじかの会」というグループが昨年12月12日に日野沢公民館で行なったいきいき百歳体操の現場(=左上写真)には、地区の主婦など15人ほどが集まり、熱心にこの体操に取り組んでいた。
「手を抜かないでやろうね」「でも、無理しちゃだめだよ」など和気あいあいとした会話が飛び交う。元気な一人に「熱心ですね」と声をかけると「みんなの顔を見て話ができることがとてもうれしいんです」と返してくれた。


みんなの力で踏み出す一歩

 支援センターによる導入サポートはどのように行なわれているのだろうか。
 いきいき百歳体操は手首や足にオモリをつけて、イメージ 7DVDを見ながら筋力向上トレーニングを週1回以上「住民主体で行なう」ものだ。そのため支援センターでは住民の「やりたい」という声を待つことを基本姿勢にしている。
 3人以上のグループであることが導入サポートを行なう条件で、実施するに当たって必要なオモリ、DVDなどは支援センターが住民グループに貸し出している。
 なお、支援センターによる「いきいき百歳体操開始お手伝い」は、地域グループが自身で運営していけるようになるための助走をサポートするもの。そのため、支援セイメージ 8ンターはスタートアップ時(開始1回目から3回目まで)に体操指導や体力測定また助言をなど行ない、4回目からは住民グループがすべての運営を完全自立で行なっていく。
「もちろん、何か困ったことがあれば気軽に連絡してきてください。その場合はいつでも出かけます」(髙松さん)というスタンスだ。
 いきいき百歳体操導入に当たっての関係主体は「支援センター」と「住民グループ」にとどまらない。
 支援センター内では髙松さんをふくめて3人の職員がサポートを担当しているが、多くの専門職のサポートを外部に仰いでいる。
 サポートしている外部専門職(=支援者)のメンバー数は25人ほど、久慈市体育協会の職員、病院や民間介護事業所のリハビリ専門職、在宅の保健師や看護師、歯科衛生士などで、必要時に支援者が地域に出向き、参加者の体力測定や体操の指導、助言などを行なっている。イメージ 9
 支援者たちは、より適切な導入また助言などを行なうために、これまで数回のミーティングをもって研修を重ねたという。
 もちろん、支援者のメンバー各自は自身の仕事のスケジュールをやりくりして地域に出向いているわけだ。
 以上のように、住民、行政、そして市内で働く人たちが心を一つにして進めているプロジェクトが「いきいき百歳体操」だ。
                 より適切な助言を行なうために支援者たちはミーティングを重ねた

とまらない笑顔の連鎖

 「3か月間で現れた効果を、53人の握力や開眼片足立ちなど5項目の体力測定の結果で見ると、改善した項目数の平均は3.15となりました。すべての項目が改善したという人も4人いました」(髙松さん)
 数字だけでなく、髙松さんが直接聞いた声は「膝の痛みがなくなったよ」とか「歩きやすくなった」といったもの。なかには「脚に水がたまっていたが、それがなくなった!」「杖なしで歩けるようになった」という声もあった。特に、下半身の筋力向上が見られたケースが多かイメージ 10ったそうだ。
 住民が主体になった運営は「地域づくり」の観点からみても高い効果を発揮している。
「百歳体操の会をやるよ」と住民どうしの声がけから会は実施されるのだから、地域コミュニケーションがより活性化する。会のさまざまな決めごと、当日のプログラムづくりも自分たちが行なっている。たとえば「会場を借りるのが有料だから会費制にして会計担当を決めよう」とか「体操が終わったあとにお茶の会をして地域情報を交換しよう」というように。
 開催案内のチラシを自分たちでつくって配布しているグループもある。体操のあと唄を歌ったり卓球をしたり、踊りを踊ったり…公民館の落ち葉拾いをして帰るグループもある。
「あの人が腰を痛めたと聞いたから、帰りに寄ってようすを見てみよう」という声も聞こえてきたが、これなど、いわば住民どうしによる「見守り支援」が行なわれていることにも等しいと思った。
 導入を機会に、会の名前もグループメンバーが自分たちで考えて名づけているのだという。イメージ 11
 楽しく笑いがあふれる会にしたいという思いを込めた「わらわら」、いつも元気な「はつらつ会」、百歳まで元気でいようと「お達者百歳」……決めているときの笑い顔が浮かんでくるようだ。
 今後は、歩いて15分以内の場所に1つのグループができることが理想で、市の人口を指標にすれば42以上の団体に取り組んでもらえるようにしたいとのこと。
「住民のみなさん、また支援者のメンバーのみなさんに本当に感謝しています。そして、これからも一緒になってみんなで健康に、地域の笑顔づくりに取り組んでいきたいと思っています」と言う髙松さん(=写真右)の顔にも笑みがあふれていた。


                 取材2016年12月21日、撮影・文 宇部芳彦/写真数枚は久慈市地域包括支援センター提供
                  *久慈市内の取組みグループ数および実施人数は、2017年1月現在の数字を記述した



                     

誕生! 山形村短角牛ジャーキー

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Topics  2017.1.24 
誕生! 山形村短角牛ジャーキー
                           
 このほど岩手県久慈市の新たな特産品に、短角牛(日本短角種の牛)のビーフジャーキーが加わった。ゆたかな自然環境をもつ同市山形町で育てられる短角牛は「いわて山形村短角牛」のブランド名をもち、その滋味深い赤身肉は高い評価を受けている。また、首都圏の感度の高いレストランなどでは貴重な食材として用いられている。今回は、この山形村短角牛を用いたビーフジャーキー開発ストーリーを、久慈市地域おこし協力隊員(久慈市山形総合支所勤務)の志水彩子(しみず あやこ)さんへのインタビューを通して追ってみた。(聞き手=宇部芳彦・久慈市地域おこし協力隊)

 
おいしいジャーキー
めしあがれ

 イメージ 12016年4月から久慈市の地域おこし協力隊として山形総合支所に勤務している志水彩子(しみずあやこ)さん。このほど、久慈市山形町の農畜産物の加工販売を手がける第三セクター・総合農舎山形村と共同により山形町特産の短角牛を使った「山形村短角牛ジャーキー」を商品化しました。
 志水さんは開発の経緯と販売現場での反応などについて詳しく、ときにユーモアを交えて話してくれました。

山形村短角牛ジャーキーを手にする志水さん。
商品化に成功し久慈市の新たな特産品に!



 
しっとりした歯ざわりで
赤身肉のうま味拡がる
イメージ 3
  ―― 新年あけましておめでとうございます。と言ってももう1月13日(=取材日)ですから遅ればせながらですが。
 さて、遅ればせながらと言えば志水さんが総合農舎山形村(以下・農舎と記述)とともに開発・商品化した「山形村短角牛ジャーキー」についてのお話しを聞かせていただくのも遅くなってしまいました。今日はよろしくお願いします。

 志水 そう、ちょっと遅いですよ(笑)。短角牛ジャーキーの開発途中に、味見をしてくださいと本庁の地域づくり振興課(=筆者の所属課)にも持って行ったじゃないですか!
 もう少しまじめに情報収集しないとだめですよ(笑)。

  ―― まいったな…、では気をとり直してまじめにインタビューさせていただきます。さて、正式名称は「山形村短角牛ジャーキー」ですね、発売日は去年(2016年)11月23日。現在は、どこで販売していますか?
 志水
 農舎のホームページで注文を受けているほか、山形町の道の駅「白樺の里やまがた」、久慈市内では「やませ土風館」またJAの「ふれあい産直ショップ花野果(はなやか)」です。今後は、東京・銀座にある岩手県のアンテナショップ「いわて銀河プラザ」などでの販売も検討しています。
  ―― 反応はいかがですか。
  志水 もちろん好評で、「おいしい」という反応です。発売開始日の11月23日は「三鉄べアレンビール列車」運行の日でした。盛岡の地ビールメーカーのべアレン醸造所が久慈駅から田野畑駅をビール飲み放題で往復する特別列車を仕立てたイベントですけれども、三鉄久慈駅前に農舎が屋台をだして販売しました。
イメージ 4 電車の中では、みなさんに「とてもうまい!」と、おすみつきをいただきました。
 ―― 価格は?
 志水 23日は発売記念で5g入り150円(税抜き)で提供しました。たくさんの方々にいっぱい買っていただきました。
 通常価格は10g入りが360円(同)、30g入りが1,080円(同)です。
 ―― みなさんが「おいしい」と言うのは?
 志水 「肉のうま味が濃厚で、ほかのビーフジャーキーとくらべてやわらかな歯ざわりだね」と評価してくれました。もともと山形村短角牛は、赤身で余計な脂肪分が少なくヘルシーで肉の味そのものがとても滋味深いんですが、この山形村短角牛の特徴を十分にひきだした味にチューニングしていることが評価されたと思います。まさに、一般的なビーフジャーキーとの差別化ポイントがこれなんです。
 ―― そうですね。私も食べてみましたが、しっとりとしていました。味もとても素直で、ストレートに短角牛のうま味が口の中に拡がった…
 志水 おいしかったでしょう! この味に決めるまでには、何回も試行錯誤を重ねているんですよ。


外からの視点を活かしイメージ 5
新たな特産品の開発へ

 ―― そもそも短角牛ジャーキーの発想はどこからでてきたんですか?
 志水 私のミッションは山形町の特産を使った商品の企画で地域おこしをすること。昨年4月に協力隊に着任したときに「山形特産の短角牛を使った商品企画をしてほしい」と所属する産業建設課から言われていたんです。
 今回のジャーキーの発売元である㈲総合農舎山形村は㈱大地を守る会と新岩手農業協同組合久慈市(旧山形村)との第三セクターになるわけですが、この農舎と久慈市で山形町特産品を使用したお土産品開発という事業がありまして、そのなかで、ある程度保存もきく短角牛ジャーキーをつくろうということになったんです。
 ―― 特産を使った新しい商品開発企画をしようということですね。ある程度の保存というのは?
 志水 短角牛の商品には精肉やハンバーグ、カレーレトルトなどがあるのですが、それとは別に、もっと簡単に食べられるもの、また、買った人が友人などにあげることができるもの、つまり観光記念の「お土産品」になるように短角牛のジャーキーをつくろうということになったわけです。
 ―― 農舎と志水さんの役割は、どのようなものだったんですか。
 志水 商品化に向けての会議を農舎さんと何回も行なってきたんですが、私の役割は地域おこし協力隊員として、よそ者の目をもって商品化に際して協力していくこと。
 話し合いの内容を受けて、実際の味つけや試作品づくりなどは農舎さんが行ないました。山形総合支所のメンバーを集めて試食を行ない意見を出し合ったり、私は主にパッケージングを担当しました。
 ―― 影のプロデューサーということになる?
 志水 そんな偉そうな立場ではありませんよ。いっしょになって、新しい山形の特産品をつくろうとしただけ、メンバーの一人にすぎません。完成したときには町民のみなさんに「新しい山形の特産品ができた」とよろこんでいただきました。
 ―― 基本的な質問ですが、ビーフジャーキーの加工の工程はどのようなものなんですか?
 志水 簡単に言うと牛肉を味つけして、乾燥させるという工程ですね。ここで農舎さんと話し合ったことは、「短角牛の赤身のうま味をきちんと残すこと」なんです。
 ―― 味つけ、また乾燥時間はどれくらいなんでしょうか。
 志水 それは秘密ですよ。それこそが生命線ですから教えられません(笑)。
 ちょっとだけ明イメージ 6かすと、調味料は多すぎると味が濃くなり肉の味を損ないますから、砂糖、塩、酒、醤油などでシンプルな味つけにしています。
 ―― 乾燥については
 志水 しょうがないなー(笑)、ヒントを言います。一般的に、乾燥時間を長くすると水分が飛んでしまってジャーキーが固くなります。でも、メリットもあって、水分が飛ぶと賞味期限を長くできるわけです。
 山形村短角牛ジャーキーは肉のうま味としっとり感をだすために乾燥時間を最適にするために何回も試行錯誤を重ねたんですね。地域づくり振興課に持って行って味見をしてもらったのも、乾燥がどうなのかなど反応を確かめるためです。ちなみに、山形村短角牛ジャーキーの賞味期限は冷蔵1か月です。



いわて銀河プラザでの「久慈フェア」のようす


高付加価値資源の宝庫
無添加・100%の力 ~

 志水 そうそう、昨年12月5日から8日までのイメージ 74日間、東京の「いわて銀河プラザ」で「久慈フェア」という催しがあったんですが、そこに短角牛ジャーキーを出品し、販売してきました。
 銀座という土地がら勤め人が多く、混みはじめたのは夕方5時以降だったんですが、とてもたくさん買っていただきました。
 ―― 地元感覚では「30gで1,080円はちょっと高い」かなとも思うんですが、それでも銀座のサラリーマンたちはいっぱい買ってくれた…?
 志水 はい。試食をすすめて「保存料などの食品添加物は一切使っていません、無添加ですよ」と言ったら「え、そうなの?」とおおぜい集まってきた。「味が濃すぎないところがまたいいね」と。値段について「高い」と言う人はいませんでした。
 ―― 無添加が人気の決め手になったわけですか?
 志水 添加物の入った加工食品に都会の人は敏感ですからね。春から秋のあいだは放牧されて広々とした牧場の大自然のなかで牧草を食み、冬は牛舎で国産飼料だけが与えられて育つのが「山形村短角牛」(=写真左下)、そのジャーキーですから価値があることを認めてくれたんですね。
 ―― なるほど、そうした付加価値に対する感覚はわかるような気がします。一方の地元感覚、つまり「高いのでは」という感覚については、私の意見を言わせてください。
 先ほど志水さんは、「土産物」あるいは「プレゼント」になるようにと思い開発したと言いましたね。
 私自身そうなのですが、どこか遠くの観光地に出かけた場合、どこでも手に入るようなものを買って帰りたいとは思わない。食べ物にしてもそうで、せっかくだから当地でしか食べられないものを口にしてみたい。お土産も「その土地に行ってきた」ことがわかるものを
イメージ 8買って帰る。人にあげるものであればなおさら、これが「本物」というものを選ぶだろうと思います。
 志水 同感ですね。ただ、塩辛い味つけや濃い味つけが好みのかたもいると思います。そして、自然の食品が豊富にある地元久慈市民の感覚からすれば、いまの価格は多少高いのではないか…と。でも、くり返しますが「短角牛のうま味を最大限ひきだしたジャーキーにしよう」と決めたのです。
 地元久慈市の人でも短角牛を口にしたことがない人が多いと思いますが、そうした人たちにも本物のおいしさを伝えたい…。農舎さんはできる限り採算ラインギリギリの価格設定にしてくれています。こうした考え方を理解していたければと思っています。
 ―― 地元では、どうしても日常の生活感覚の中で捉えてしまいますからね。いっそのこと贈答品としての高級感をだすためにハコに入れるなどしたらいかがですか?
 志水 今後の動向を見て農舎さんに提案させていただくかもしれませんイメージ 9が、いまは販売を開始したばかり。どんどん県外でも売っていきたいので、私も営業活動に力を注ぎますよ。
 ちなみに、現在の透明なパッケージに貼られているラベルには「山形村短角牛は大自然の中で愛情を込めて丁寧に育てられた牛です」という説明を入れています。当初は「贅沢な厚切りで…無添加で…」とこの短角牛ジャーキーの特徴を説明するラベルを貼ろうと言っていたのですが、「それよりも山形村短角牛とはどのような牛なのかを訴えましょう」と私が提案して、現在のものを採用してもらったんです。
 ―― なるほど。地域おこし協力隊員ならではの視点といえますね。
 志水
 そういえば、銀河プラザでは短角牛ジャーキーのほかにも大人気だったものがあるんですが、それは何でしょうか?
 ―― 山形町の特産で?
 志水 正解は山形町産のハチミツです。ほらぁ、久慈市の地域おこし協力隊員の宇部さん(=筆者)も山形のハチミツの存在を知らない、しかも宇部さんは去年、山形総合支所勤務だったのに。
 ―― 面目ない…
 志水 まぁ、市民でも知らない人が多いんですけれどね…。
 これも山形町の養蜂家たちのハチミツで100%天然。中国やハンガリー産のハチミツや水あめをブレンドイメージ 10している国産ハチミツも少なくないんですよ。
だから、100%天然の山形のハチミツは銀河プラザで、飛ぶように売れたというわけです。
 ―― それは、すごい!
 志水 ハチミツも山形町のすばらしい自然環境が生んでいる資源ですね。町内のゆたかな自然のなかで育つ花々からハチが集めた蜜ですから。
 いずれにしても「無添加、100%天然」などのすばらしいものには相応の価値を認めていただける。それがよくわかる出来事でしょう? そんな隠れた名品や資源はまだまだ山形にはいっぱいあるはずです。
 山形は自然の恵みがつくりだす高付加価値資源の「宝庫」ですよ。
 ―― 恐れ入りました。
 志水 こちらこそ、山形村短角牛ジャーキーに注目していただいて、とてもうれしかったですよ。今日は本当にありがとうございました。



文化を知り 人を知り
地域を知る
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 ―― ちょっと待って、インタビューを終わりにする前に聞きたいことがあるので、もう少し時間をください。風のうわさで「志水さんが散弾銃の免許をとったそうだ」と聞いたのですが、それは本当のこと?
 志水 山形のハチミツは知らないのに、そんなことは知っているんですね(笑)。
 ―― 広く浅くアンテナを張っているのが私の特徴ですから(笑)。
 志水 正しくは「狩猟免許」と言います。私がとったのは第一種狩猟免許で、これが散弾銃の免許。そしてもう一つとっていまして「ワナ猟免許」、箱型などのワナを仕掛けて猟をする免許のことです。去年の夏にこの2つをとりました。
 ―― なんのためにとったのですか?
 志水 山形の野山の環境、そして文化に深くふれたいと思ったから。私は神奈川県小田原市の出身ですけれども、久慈そして山形でしかできないことを体験したいと考えたんです。イメージ 12
 ―― 私が山形総合支所に勤務していた一昨年、総合支所のすぐそばの道にクマがでてきてあせったことがあります。そのときはクルマを運転していたので、すばやく通り過ぎました。山形町の隣の久慈市山根町ではクマに人がおそわれてドクターヘリで病院に運ばれたこともありました。
 志水 師匠たちは全員が60代以上なんです。そしていま、山形にはこの人たちだけしか猟をする人がいません。ということは、このまま時間がすぎていけば害獣被害が大きくなるだろうし、文化も風化してしまいます。
 ―― 本当にその通りですね
 志水 私自身はじめたばかりですが、若い猟師をふやす活動もしていきたいです。それと、冬の山形、雪と白樺の山形もとてもきれいですよ。
 ―― なんだか山形町へでかけたくなってきました。
 志水 そう、山形にきてガタゴン(道の駅白樺の里やまがた)で山形村短角牛ジャーキーをいっぱい買って、ね!

                   インタビュー2017年1月13日/文・宇部芳彦(久慈市地域おこし協力隊)

                    *商品の詳細その他について
                     総合農舎山形村ホームページ  
http://www.nousya.jp/index.html 



シリーズ移住定住 その1 岩手県久慈市

Bird’s- eye view  
シリーズ移住定住
若者とシニアが集まるまちへ 

 人口減少をくいとめたいと、多くの地方都市では住宅紹介や優遇策、地域の観光資源などを前面に打ち出した移住定住の促進を加速させている。本特集は「シリーズ移住定住」と題し、今回【その1】ではなぜ移住定住促進が必要なのかを久慈市の例を通して詳述する。また「高齢者」と「若者」両方の移住定住策に着目し、【その2】【その3】でそれぞれが推進されているケースをレポートしていく予定。

シリーズ移住定住【その1】   2017.1.12
 Kターンを旗印にイメージ 1
   ふるさと回帰進める

           ― 岩手県久慈市

Kターンってなに?

「久慈は英語表記でKUJI。UターンのU、JターンのJ、IターンのI。移住定住の大切な要素を市名にもつ久慈市はとても縁起がいいと思いませんか?久慈市ではUJIを総称して『Kターン』と名づけ、Kターンをキャッチフレーズに移住定住促進策を展開しています」と言うのは、久慈市地域づくり振興課の佐々木海里(ささき みさと)さん=写真上。2016年4月から移住定住担当についた。
 Uターンとは、久慈生まれの都会に住んでいた人が再び久慈に戻ってきて暮らすこと。Jターンは、たとえば隣接する洋野町出身者(久慈市以外の出身者)で東京などに出ていた人が久慈に移住してくること、Iターンは東京など都会の出身者がダイレクトに久慈に移住してくることを指す。
 いま久慈市が移住定住促進のためにとっている取組みは、大きく分類して以下の4つの分野のサポートだ。
 1つめは「住居」の分野(空き家バンク、移住定住促進事業費補助金など)、2つめは「農業」の分野(新規就農者育成確保対策事業、農の雇用事業)、3つめは「子育て」の分野(第3子以降の保育料無料など)、4つめは「起業」の分野(中心市街地出店補助金、空き店舗対策チャレンジショップ事業など)。
 ほかにも、イメージ 2自然環境のすばらしさや観光面など市のあらゆる魅力をPRすることで久慈に目をむけ      てもらう機会をつくりだそうと努力を重ねている。
 「久慈市が移住定住促進に取り組むのは人口減少と高齢化が進んでいるから」と言う佐々木さんだが、その状況はどのようになっているのだろうか?

久慈駅前のようす




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10人のうち3人が高齢者
~ 超高齢社会の久慈市

 現在の久慈市の総人口は3万5,642人(平成27年国勢調査)。久慈市の人口がもっとも多かったのは1960年で4万5,025人だった右写真は久慈市の市街地
 11年前の2006年には旧山形村久慈市と合併し久慈市山形町となり、その時点から山形町の人口が久慈市の人口に合算された。合併したのだから久慈市の人口は統計上ふえて当然と思われるのだけれども、合算されている2016年の数字は、合算されていない1960年とくらべて約1万人も減っている。
 2016年の世代ごとの人口を見ると①0歳から14歳までの年少人口は4,505人で、これは総人口の12.6%にあたる。同様に②生産年齢人口(15~64歳)は2万544人で57.6%、③65歳以上の高齢者人口は1万527人で高齢化率は29.5%。
 つまり、久慈に住んでいる10人のうちの3人が高齢者であり、久慈市は「超高齢社会」のまちになっている。超高齢社会とは高齢化率が21%以上の社会のことだ。
 ちなみに、一般的によく口にする「高齢化社会」とは高齢化率が14%以下の社会のこと、「化」の文字がつかない「高齢社会」は高齢化率21%未満の社会のこと。
 「久慈市人口ビジョン」(2015年10月発表)は「10代後半から20代前半の若年層が、盛岡や東京圏などに流出したあとUターンなどで久慈市に戻ってきていないこと、また出生率が人口規模を維持するために必要な水準に達していないことが人口減イメージ 18少の原因」と分析している。
「若者が流出し親は久慈で暮らす」ことが続いた結果、高齢化率がどんどん上がっていったのだ。
 左のグラフは久慈市の人口と高齢化率(65歳以上)の推移を示したもの(平成17年以前の人口は旧久慈市、旧山形村の合算値)だが、人口が減り続ける一方で高齢化が急速に進んでいることが見て取れる。
 市民どうしが何気なく交わす「俺の息子は高校を卒業して久慈を出て行った。息子は都会で就職し結婚して孫が生まれた。息子家族はもう都会の人だよ」という言葉が、超高齢社会へと進んできた理由をよく言い表している。
 そもそも、人口減少また高齢化が進むと何がどう困るのか?




すぐそこにある危機

 先の久慈市人口ビジョンは「地域経済が衰退する」と指摘してイメージ 4いる。
 人口減少は働く世代の減少も意味しているのだから、地域経済を支える労働力が不足することになるわけだ。また、地域ビジネスを支える購買人口も縮小する。
「医療、福祉・介護への影響」もある。
 久慈市の65歳以上の老年人口は2025年まで増加することが見込まれ、75歳以上の高齢者も2035年まで増加すると予測されているが、増加した高齢者を支える医療、福祉・介護の需要にこたえる働く世代(労働力)も不足する。
 この状況は、現在すでに起こりつつある。久慈市ハローワークを覗いてみれば現在でも「介護職員募集」がほかの業種の求人数に対して圧倒的に多くなっていることに気がつくはずだ。
 時計をもっと進ませてみれば、2035年までふえ続けた久慈市の高齢者人口は以降減少に転じる。高齢者がすくなくなれば医療・福祉・介護産業がその規模を小さくする。もともと希望する職種や条件にあった仕事が少ないため都会にでていく人が多い久慈なのだが、2035年以降は市内にある仕事・職種がさらに限定されたものになるかもしれない。
イメージ 5 三陸鉄道北リアス線、JR八戸線、バスなど地元の公共交通も運行がむずかしくなる。
 さらに、久慈市(行政)の財布も心もとなくなっていく。
 人口減少によって歳入(税収や地方交付税交付金など)が減る一方で、久慈市の公共施設、たとえば図書館や体育館、観光施設などだが、これらの老朽化が進んで修繕の費用がかさんでいく。入りが減り出が増加していけば財布の中身は限りなくゼロに近づいていくわけで、極端に言えば「破産」してしまいかねない状況に追い込まれる可能性もある。
 ここまで見てきてわかるように、以上の困難は「現在でもすでに起こりつつあること」で、今後はさらに重くのしかかってくることになる。
 もちろん、久慈市(行政)はあらゆる手立てをつくして人口減少を抑制していくことを決意している。しかし、それであってもいかんともしがたく、久慈市の人口は2040年に2万6,653人になると推計されている。
 くり返すが、さまざまな抑制策を講じることによりできる限り人口維持・確保を図るという決意のもとでの推計数字なのだが、それでも23年後の久慈市は、いまよりもさらに1万人以上が減少することになると計算されているのだ。
 急激な減少カーブをできるだけ緩やかにイメージ 6して、この間に未来への光を見出していくという思いを行政だけのものにせず、私たち久慈に暮らすもの一人ひとりが状況を認識し地域活性化への思いを共有しなければ幸せな未来を招くことはとうてい叶わない…。
 佐々木さんも「まずはこの現状を市民のみなさんにも理解していただきたい。そして、移住定住先として魅力ある久慈を一緒につくりだしていかなければいけない、そう思って活動を進めています」と話す。
 佐々木さんが注力しているのは「空き家バンク」の充実、「移住定住促進事業費補助金」を活用してもらうこと、移住相談会など「イベントへの出展」、久慈市のPRを担う「北三陸久慈市ふるさと大使」との連携による地域の魅力訴求だ。


周知徹底が大きな課題
~物件ふやし選択肢拡大へ~

 「空き家バンク」とは、市内の空き家を移住定住希望者に紹介する制度のこと。物件の販売価格や家賃、間取りなどの詳細情報はホームページサイト「Kターン 久慈市交流・定住ナビ」に掲載されている。
イメージ 7 佐々木さんは空き家所有者からの申請を受け、現場に出向いて物件状況の確認を行なっている。
「たとえば修繕は必要ないか、即入居可能か、また入居条件はどのようなものかなどです。これらを確認してほかに問題がないかどうか検討します。結果、適切と判断した物件の情報をホームページサイトのKターン久慈市交流・定住ナビにアップします」(佐々木さん)
 そして、ホームページのKターンなどを見て連絡してきた移住希望者の相談に応じ、下見に案内する。下見には佐々木さんのほか物件の大家、また岩手県宅地建物取引業協会久慈支部の会員になっている仲介業者が立ち会う。検討者がこの物件でOKとなれば仲介業者が契約手続きを行なって入居開始となる。イメージ 8
 久慈市が空き家バンク制度を本格スタートさせた2009年1月からの累計の空き家登録物件数は26件で、2016年12月末現在、紹介できる物件は9件となっている。
 この9件のうち売却物件は8件、売却また賃貸のどちらでもいいという物件は1件である(=左写真および右写真は空き家バンクに登録されている物件)。
「空き家バンクを利用して久慈市に移住してきた人は、2009年から現在までで5人です。2016年は20件ほどの相談があり、下見には4家族がきていますが、イメージ 9残念ながら、契約にはいたっていません」(佐々木さん)
 岩手県内で空き家バンク制度を導入しているのは19市町村で、制度を利用して移住してきた人は全県で200人となっている。
 岩手日報2016年12月4日の記事によると、空き家バンク制度で5人の移住者を獲得した久慈市は県内順位では4位にランキングされる。
 ちなみに、1位は2007年に空き家バンク制度をスタートさせた奥州市の135人、2位は2015年スタートの遠野市で27人、3位は2013年にスタートさせた一関市で19人。久慈市より下位にランキングされている市町村は2人あるいは1人という数字が多く、0人という自治体も少なくない。なお、1位の奥州市は空き家物件登録が258件と群を抜いている。職員が定期的に家屋調査を行なって所有者に登録を促しているほか、専任の移住相談員がきめ細かい対応を行なっていることが1位を獲得している理由だと岩手日報の記事は説明している。
イメージ 10 佐々木さんはもちろん、久慈市の5人という数字を良しとはしていない。
 久慈市の空き家バンクの大きな課題は登録物件数が少ないことにある。特に、移住者は賃貸物件を探している場合が多いが、現在は売却物件が多いためなかなか希望に沿う物件が紹介できないでいる。
「賃貸・売却に限らず、まず紹介できる登録物件数をふやすことが課題です。空き家の所有者は、遠慮せずにどんどん連絡してきていただきたいと思っています」(佐々木さん)
 しかし、一口に「登録件数をふやす」と言ってもなかなかそう簡単にことは運ばないのだそうだ。たとえば、親が住んでいた家が空き家となっていて、息子など現在の所有者は久慈に住んでいないケースがままある。若い世代の都会への流出は、こんなところにも困難をもたらしている。
 いずれにしても、空き家バンク制度そのものが市民に知られていないことが、物件数をふやせない根本的な原因である。イメージ 11
 そのため久慈市では、物件の充実を図ろうと2016年6月に岩手県宅地建物取引業協会と協定を結んだ。
「広く告知して物件数をふやすとともに、賃貸物件またリフォームなしの即入居可能な物件をふやすこと、加えて市の中心部の物件数をふやすことが目的です。宅建協会の会員になっているみなさんにも協働を求めたんです」(佐々木さん)

 
補助金を活用し3家族が移住

 空き家バンク制度のほかにも、久慈市は一昨年(2015年)から「移住定住促進事業費補助金」をスタートさせた。市内の新築あるいは中古物件を購入する場合に、物件購入費あるいはリフォーム代を上限50万円(補助率1/2)までの範囲で補助するといったものだ。
 空き家バンク制度を利用して移住する場合にも、家賃が月2万円以上の賃貸物件の場合には家賃を12か月間にわたり月1万円ずつ補助するし、賃貸物件のリフォーム代も10万円を上限(補助率1/2)として補助する。
 この制度を利用して、現在(2016年12月末)3家族9人が久慈に移り住んできている。これら3家族は、いずれも市内に住居を新築する際に補助金を活用した。したイメージ 12がって、前述した空き家バンク利用者の5人とは別の移住者である。
 3家族すべてが、なんらかの形で久慈とつながりのある人たちで、2つの家族は30代のミドル世代、もう1家族はシニア世代。
「親や知人が久慈に住んでいるし、本人や奥さんが久慈出身者だからというUターンの人たちですね。全家族が市街地に近い場所に居を構えています。補助金が移住の決め手になったと答えてくれた家族もありました」(佐々木さん)と言うように、この補助金制度も空き家バンク制度と同様、移住希望者や都会に出た知人や子息をもつ市民などに広く知ってもうことが課題になっている。


東京でも久慈の魅力PR
~お試し移住など新たな試みも~

 さて、2016年11月6日、佐々木さんは有楽町の東京交通会館で行なわれた移住定住促進イベント「岩手県ふるさと暮らし相談会&セミナー」(=下写真2枚)に、地域おこし協力隊の深澤奈津実さんとともにイメージ 13久慈市のPRのために出展してきた。
 岩手県主催のこのイベントには久慈市のほか雫石町二戸市八幡平市、県南振興局がセミナー形式で地域の魅力をPR、また机をだして希望者と個別相談を行なった。
 埼玉県出身の深澤さんは「久慈は朝ドラあまちゃんの舞台になったところなんです。海・山・川が近く、夏は涼しく心があたたかい。ただし、なまりがわからない」などのユニークなイメージ 14PRトークで会場を笑わせたとのこと。
 個別相談にきた40代の夫婦は東京在住で、「久慈が移住の第一候補。農業か漁業がしたい」と言い、雪はどれくらい降るの?と生活面や買い物の利便性を詳しく聞いたという。
 また、別の若い男性は「岩手県内に移住したいと思っているが、岩手の中でも久慈のいいところはどのようなことか?特に、地元の特産品マネジメントで起業できる環境にあるのか」と相談してきたそうだ。
「かなり具体的な相談で手ごたえがありました」と言う佐々木さんは、2017年1月15日に開催される「JOIN移住・交流&地域おこしフェア」(東京ビッグサイト。全国約400の団体が出展)にも移住・交流相談ブースを出展し、移住希望者の生の声を集めてくる。
 そのほか、佐々木さんは「北三陸久慈市ふるさと大使との連携による久慈市の魅力PR」を掲げているが、彼らは各自フェイスブックなどSNSを使って久慈の情報を発信している。
イメージ 15 ふるさと大使には久慈市出身者のほか久慈を訪れたことのある人など130人ほどがついていて、その約半数が関東圏在住だ。
「今後は大使を集めたイベントなどを積極的に開催していくことで、久慈の情報発信頻度を高めたい」と話す佐々木さん。
 彼女の移住定住促進に向けた活動計画はまだある。
 その1つが2017年5月から運用開始を予定している「移住お試し住宅」。
 このお試し住宅は希望者の相談に応じて随時、貸し出していくもので、「1、2週間にわたり実際に暮らしていただき、久慈での生活を実際に体験してもらいたいたいと思っています」(佐々木さん)
 2つめは、久慈の見どころを2、3日かけて巡る「移住体験ツアー」で、秋ごろに実施したいと現在、ツアー造成に向けての検討を進めている。


ポイントはUターンイメージ 16
~愛着はぐくむまちに~

「人口を減らさないために何ができるのか?…ポイントはやはりUターンの促進なのだと思っています。若い世代また中高年にも戻ってきてもらいたい。いま久慈市は若者、高齢者にわけての移住促進策はとっていませんが、今後は世代別にきめ細かくフォローできるように勉強したい」
 佐々木さんは、小さいころからの久慈への「愛着」が移り住んでくる大きな動機になっているとも言う。
 実際、地域おこし協力隊の深澤さんは埼玉県春日部市の出身だが、曾祖父が久慈市山根町に住んでいたので子どものころから久慈を何回となく訪れていた。訪問を重ねるうちに久慈が好きになり久慈市の協力隊員に応募した経緯をもつ。
「さまざまなイメージ 17取組みは進めていますが、都会からいつも振り返ることができるまちになることが大切なのではないかと思うのです。子どもたちの心に楽しかった思い出が刻まれること、地域への愛着と言えばいいのかな……、そうした思いがはぐくまれることで一度は出て行っても、久慈に帰ろうという人たちがふえてくるだろうと思うのです。一方、もし私が移住者の立場だったら、人がやさしく明るいまちに住みたいと考えるはずです。ですから私自身、いつも笑顔を心がけて活動しています」と話す佐々木さんだ。
 
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 今回の「シリーズ移住定住その1」では岩手県久慈市のケースを例にとり、人口減少と高齢化がもたらす弊害とそれに立ち向かう担当者の努力に焦点を合わせてレポートした。
 多くの自治体がそうであるように久慈市の場合も、即効性のあるこれといった特効薬は見いだせてはいない。「移住を希望する人の想い」が「移住場所」あるいは「移住先の人たち」とマッチングして成立する移住定住のむずかしさが、話を聞き進めるほどにどんどん浮き彫りになっていったように思う。佐々木さんは「久慈とゆかりのある人を呼び込む」ことではずみをつけ今後を切り拓きたいとしているが、久慈市の地域おこし協力隊である筆者も、彼女の進めるアプローチが功を奏すことを心より願っている。

                        *取材2017年1月5日 文・宇部芳彦(久慈市地域おこし協力隊)