集客戦略論 -1 フラッグの力を評価せよ!

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集客戦略論 –1
フラッグの力を評価せよ!
 ― 施設の雰囲気をつくる演出 -

                                                                  20128.11.26

 写真は「釜石市民ホールTETTO」です。
 TETTOはテットと読みます。
 鉄の都(鉄都)であり、イタリア語で「屋根」の意味なのだそうです。
 
 僕はこの施設を見たとき「なかなかやるな!」と思いました。
 それはなぜか?
 屋根の下に掲げられている「TETTO」というフラッグ(旗)が施設を美しく飾っていたからであり、フラッグがこの施設の雰囲気をつくり上げていると感じたからです。
 
宇部集客施設のフラッグの役割は大きいんだ。フラッグ演出がしっかりしているところはやイメージ 2る気があると見ていい」
 これは、僕のいた出版社の企画調査部長が教えてくれたことです。
 その部長は、僕が新卒で入社した2か月目のことですけれども、沖縄のリゾートホテルの取材に僕を同行させました。

 ホテルのロビーには南欧風のフラッグが吊ってありました。
 インタビューする相手を待つあいだ、ロビーのフラッグを仰ぎ見ながら部長は僕にそう説明してくれました。
 
 僕はこのホテルに入ったときに「南国リゾート」という感覚が自然に湧き上がってきていました。部長の言葉に触発されて、あらためて上を見た僕は「フラッグの効果だ」と確信しました。南国の雰囲気を感じたのは、フラッグを無意識のうちに目で捉えていたからこそだったわけです。
イメージ 3

 逆を想像してみればどれだけ大きな役割をフラッグが果たしているかがわかります。たとえば、右の写真の「TETTO」のフラッグがない場合は…。
 おそらくまったく味気ないただの建物という印象しか受けないと思いますが、いかがでしょうか。


 以来、部長の言葉は取材をする際の指標の一つになりました。いまでも、フラッグによって空間に流れる雰囲気をつくりだしている施設を見ると、僕はもうそれだけで
「ここはがんばっているな」と感じます。イメージ 4





 *右写真は青森県八戸市の市民広場「マチニワ」にイベントのときに掛けられたバナーフラッグ
 子どもが思わず足を止めて引き込まれているのがわかります。


                              
                                                                                           *文・写真/宇部芳彦 


切符をしっかり持っておいで

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Essay
 切符をしっかり
    持っておいで

                                     






   さあ、切符をしっかり持っておいで。
   お前はもう夢の鉄道の中でなしに
   本当の世界の火やはげしい波の中を
   大股にまっすぐあるいて行かなければいけない。

                             < 銀河鉄道の夜 宮沢賢治

                                                                     
 とても力強く背中を押してくれるこの言葉が、心に沁み入ってきました。
 
 数多くの出版社から「銀河鉄道の夜」は出されていますが、ほとんどの本では上記の部分の記述がカットされているそうです(賢治は原稿を何度も推敲していて、現在ではここの部分が「削除」されたものを「決定稿」とみなすことが多いからだそうです)。したがって、ここの部分の記述がある本は現在とても少なくなっているとのことです。
               
                 *

 地域おこし協力隊を2018年6月に卒業し、11月中旬にライティング・編集活動に専念することを決意した。イメージ 2すこし前、僕はどんな心境だったのだろうかと思いフェイスブック宇部芳彦のページ」をめくっていたら、10月17日に掲載していたこの記事が目に入ってきた(*印の上の文章はフェイスブックの記事を再掲したもの)。

 さまざまな困難に立ち向かっていく勇気を賢治のこの言葉からもらったような気がした。


                           < 文・写真/宇部芳彦>




シリーズ移住定住-その7 負のスパイラルを断ち切れないか?

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シリーズ移住定住【その7】
負のスパイラルを
    断ち切れないか?

  ー 地方の人口減少を考えてみた
                                                           
                 2018.11.19



希望を見いだせない

 なぜ地方の人口は減少するのでしょうか。
 いまも昔も地域から若者がでていく理由はいたってシンプルです。「田舎で暮らしていくことに希望を見いだせない」からです。
 つい先日のことですが、三十代の友人が「結婚したいから都会へでてしばらく働いてこようと思う。お金が必要だから」と相談してきました。 
 この友人のように若い働き盛りの男性が、平成が終わろうとしている現在でも「出稼ぎをしなければ結婚できないかも」と不安をもつのが田舎の現実です。


生活費が安いというウソ

 ストレートに言います。地元ハローワークの求人票を見れば、東京とくらべると数万円から十数万円くらいの幅で月給が違っています。一部の企業だけではなくて、総じてほとんどの企業の給料は低いレベルにあります。これはひとり僕の田舎だけの問題ではないだろうと思います。
イメージ 2「給料が安いのはマーケット人口が少ないからで、儲けが少ないのだから仕方がない」と企業は言うでしょうし、その通りなのでしょう。
 別の角度から考えてみます。
 一般的に日本中どこの田舎の住民でも、地域外の人にはこう言います。「野菜なんかは近所の人が持ってきてくれるから、ここで暮らすのにほとんどお金はいらないよ」と。  
 でも、少し冷静に考えればそれはまったくの嘘だとわかります。携帯電話料金は田舎のほうが安いのでしょうか。また、田舎ではクルマがないと生きていけませんが都会ではクルマを持っていないことのほうが普通です。クルマ代はどうしますか、このごろはガソリンが高騰していますけれども?…
 子どもを学校に通わせるバス代などの交通費や下宿(アパート)代など教育関連コストは逆に田舎の人のほうが高くなると思うのですが?…



座して死を待つのか
  ~ やせ我慢で発展可能性へ ~ 
                                   
 結婚したいと言った友人が都会から戻らなかったり、お金が貯まらなかった場合、結婚できなくなるので子どもは生まれません。地元にいる若い人の多くが彼のような状況にあるならば、田舎の人口はこれから先も減っていく一方です。地元企業もマーケットがしぼんでいくのですから、いまよりさらに経営は苦しくなっていきます。イメージ 3
 理想にすぎる提案をしてみます。「すでにお前が言うようなことはギリギリまでやっている」と言う経営者がほとんどだろうと思います。そう言うであろうことをわかりつつも、あえて以下に試案を書き込んでみたいと思います。
 それは、少しだけ(かなりの痛みをともなうかもしれませんが)「やせ我慢」をして、従業員の給料をあと5000円だけでもいいからふやしてあげたらどうでしょうか?という提案です。給料がふえたぶんは地域で使ってもらえるように休日もふやしてあげます。
「前よりはラクに面白おかしく生きていけそうだ、都会ですり切れるより人間らしく暮らせるかもしれない」と、いったん出ていった人が故郷の状況を聞きつけてUターンしてくるかもしれません。そうなれば、お金が地域で回り、人が戻ってくることになるのでマーケットが拡大し地元企業が発展する‥‥そんな絵を描くことが可能になるかもしれません。
  繰り返しますが「現実を知らない人間の空論。勝手なことを言うな」と言われるだろうことは百も承知していますし、出すぎた発言だということも理解しています。
 でも、このまま何もしなければ地方の企業もそこで暮らす人たちも困り果ててしまうだろうと思います。「そんな考え方もあるんだな」と、一人ひとりがいま一度人口減少について考えてみるきっかけになればいいなと思ってこの試案を書いてみました。
                                                *
 いずれにしてもむずかしい問題です。人が減り、企業が元気を失い、そうなればまた人が減っていくというこの負のスパイラルを、何とか断ち切る方法はないのでしょうか。
 僕は地域おこし協力隊を卒業したいまでも継続してこれに対する答えをさがしています、地元の企業も元気に、住む人も元気に、そして僕も元気に生きていきたいから。


                             <文・写真/宇部芳彦>





駆けまわった協力隊の日々 - 心に刺さる情報を -

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駆けまわった
    協力隊の日々
   
                  2018.9.6

 私、宇部芳彦(この「Bird's-eye view」ブログの筆者=右写真)は岩手県久慈市の地域おこし協力隊として今年2018年6月10日まで、3年間活動していました。
 宇部の卒業に際して、同じ久慈市の地域おこし協力隊員の田端涼輔氏が、宇部の卒業の直前にインタビューしてつくってくれた記事を以下に掲載します。
 さすがに同僚の協力隊員、田端氏は私の協力隊活動に対する考え方をとてもよく捉えてくれています。
 以下のインタビュー記事は、今年6月1日から4日まで久慈市内で開催した宇部の「卒業展示」(宇部's-eye View)の場で公開した以外に発表の場がありませんでしたので、このブログで改めて公開します。
 地方創生に興味のある人や携わっている人、地域おこし協力隊員などとして各地で活動している人たちに読んで楽しんでいただけたら嬉しく思います。
 
 
 
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 心に刺さる情報を
      わかりやすく 

 

                                      2018年5月20日収録
                 インタビュアー 田端涼輔(たばたりょうすけ)
                                      久慈市地域おこし協力隊 山根市民センター勤務

 
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   久慈市地域おこし協力隊 第1期生
   宇部芳彦(うべ よしひこ)
   任期:2015年6月11日~2018年6月10日 <3年間>
   *久慈市 山形総合支所 ふるさと振興課 2015年6月11日~2016年3月31日
   *久慈市 地域づくり振興課 2016年4月1日~2018年6月10日 
 
 
 
スキルを活かし
  全国の事例
をレポート
 

 
  
―― 宇部さんは2015年6月に久慈市の地域おこし協力隊員になりました。山形総合支所では「広報やまがた」の制作補助とFacebook久慈市山形町広報室」での情報発信、本庁の地域づくり振興課に異動してからは「広報くじ」の取材、また市ホームページに「協力隊通信」(協力隊員・集落支援員の紹介記事)や全国各地の「地域おこしケーススタディ」(市ホームページおよび宇部芳彦ブログ「Bird’s-eye view」に掲載)の記事をアップしてきました。
 3年間の活動を振り返ってみて、一言で言うとどんな3年間でしたか?

  

  宇部 あっという間に過ぎてしまったなという思いです。もっともっとたくさん取材して、元気や勇気のでるような全国の事例を市民のみなさんに紹介したいと思っイメージ 2ていましたが、なかなか思ったように事は運びませんでしたね。 
 
 久慈の課題に細部までぴったりとマッチするような事例は、当然ですがありえないので、おおむね共通しているだろうなと思うような事例を探し出すことに時間を費やすことが多かったですね。
 

 


閉校記念誌「蛍雪ながき年月を」
 
 ―― 宇部さんは久慈市の出身で、久慈高校を卒業して中央大イメージ 1学に進み、そのまま東京の出版社に就職して編集者として活動。途中、フリーライターしていた時期もあったと聞いています。久慈市の協力隊に就くまでは企画・編集の仕事一筋。だから、「スキルを活かして協力隊の仕事を進めるんだ」といつも言っていましたね。
 苦労したけれど、いちばん達成感があった活動はなんでしたか?

 

 宇部  昨年初夏から今年1月にかけて携わった久慈市立小国(おぐに)小学校の閉校記念誌「蛍雪ながき年月を」の編集協力の仕事ですね。

 山形総合支所で活動していたこと、そして私が出版社の出身であるということを思い出していただいたのだと思いますが、山形町の小国地域の住民のみなさんから「協力してもらえないか?」と声をかけていただいたこと自体、とても光栄なことでした。
 閉校記念誌は単行本で、地域のみなさんの学校への思いを記録するものであり、さらに、久慈市立図書館、久慈市立山形図書館、また岩手県立図書館などにも貸出し用として置かれるとともに、歴史的資料として長く保管されていくものです。

 私のスキルを最大限に発揮することが第一に望まれた仕事であり、地域の人たちの思いを乗せて時代を超えて残っていく本づくりの仕事です。
 創立から142年の長い歴史をもつ学校であり、大火で古い写真が焼失してしまっていたりするなど、さまざまな苦労がありましたが、それだけに、できあがった時の喜びはひとしおでした。地域のみなさんと学校で組織する閉校記念事業イメージ 16実行委員会・閉校記念誌部会のみなさんにたいへんお世話になりました。

 
 「学校がなくなって悲しい」のはその通りなのですが、悲しいという思いを前面に打ち出すのではなくて、「こんなに楽しかったんだよ」「僕らの学校はすごいだろう!」というみなさんの思いを伝えたいなと…。私は、いつもそう思って編集していました。
 3月24日の「閉校式典・感謝の集い」には「広報くじ」の取材でおじゃましていたのですが、当日いきなりのサプライズで「感謝状」を贈呈していただき感激しました。協力隊として働いていたことがあったなと思いだすたびに、このシーンがよみがえってくるのだろうなと思います。

 
 
 
5200人を取材?
 
  編集者の視点 ―

 
 ―― 宇部さんは前職が編集者ですが、これまでに取材したユニイメージ 3ークな事例や、インタビューした人の数はどれくらいでしょうか?
 

  宇部  ユニークな取材と言えば、20代あるいは30歳になったばかりだったかな…、米国のカリフォルニア州にあるクライオニクス(遺体の冷凍保存)ビジネスを行なっている研究所に行って、そこのトップに話を聞いたことがありますよ。
 
 彼は「off (死)をきっとON(生)にできる日がくる。われわれはそれを信じて寝る間を惜しんでONへの技術と最適な保存方法を研究しているんです」と、施設の設備はもとより所内にある彼の寝室まで見せてくれて、枕元の目覚まし時計を指さしながらそう説明してくれました。そのまなざしがとてもピュアで「やさしい人だな」と思ったことを覚えています。
 
イメージ 4 宇部 あと、取材した人数ですよね(笑)…。
 毎日1人あるいは1件の取材と数えれば、年間200人、あるいは件と言えばいいんでしょうか、それくらいはいっているでしょうね。
 数えたことはありませんが、23歳から49歳までとすれば5,200人(件)という計算になりますね。
 月刊誌をつくっていたころは、1日3人のインタビューにプラスして2施設の取材といったようなこともありましたから、それ以上になるかもしれません。
 これを、いちいち文章に起こすのですから、テレビドラマに出てくる徹夜で仕事をする編集者の姿は、あながちウソではないとイメージ 5いうことがわかると思います(笑)。
 
 
―― インタビューするときに心がけていることはどんなことですか?
 

 宇部 わかったふりをしないということです。
 もちろん、事前に取材対象の情報はできる限り入手しますし、資料があれば一生懸命に事前にそれを読み込みます。
 
 でも、いざ現場に行ったら一夜漬けの知識は役に立たないことが多い。その知識をふりまわしてみても、役に立たないどころかコミュニケーションを阻害します。これは経験上、言えることです。
 
 農協の取材に行ったときのことです。事前に1冊の単行本を読み下しまして「完璧だ!」(笑)と息も荒く乗り込みました。
 イメージ 6そうして、相手と会話のやりとりを開始したわけですが、ニュアンスが微妙に食い違うんです。インタビューが終わってから文字に起こしてみると、焦点がぼけてしまって、私も相手も何が言いたいのかわからなくなってしまった。
 
 相手は農業に数年取り組んでいる人であり、こちらはいわば「畳の上の水練」、つまり本当のことを具体的には何もわかっていない。相手が苦労して何年もかけて体得した学びと、一夜漬けの詰め込みが勝負になるわけがない。  
 
 だから毎回、相手の言いたいことを真剣に、謙虚に聞く姿勢を忘れてはいけないんですね。
 
 そうして、またここが逆説的になるんですが、いくら役に立たないことが多いからといって、取材対象の情報を事前に仕入れることを怠ってはいけないんです。これは、相手との共通言語を見つけ出すために必要なことなんです。
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 たとえば、「アンテナ」と言えなければ「テレビを映すために電波を受ける竿のようなもの…」と言い換えたりして説明することになりますが、まったく同じものをお互いがイメージして話しているとは限らないわけです。こうしたギャップを埋めるために、できる限り事前情報はインプットしておいて話を聞くほうが絶対にいいわけです。
 
 役に立たなくても勉強しておくこと、そして現場では相手が何を言いたいのか、真剣に話を聞くこと。聞き取りにくかったり、理解できなかったら「わかりません」「教えてください」「こういうことなんですか」と丁寧に聞き返すこと。「わからないのは恥」「恥ずかしい」という意識を捨てることが大切です。
 
 それでも、ニュアンス違いや間違いは起こるんです。人間ですから100%完璧はありえないわけですね(笑)。

 
 ―― では、文章をつくるときに心がけていることはどんなことですか?
 
 イメージ 18宇部 それはもう一言につきます。「わかりやすい」表現にするということです。実はこれがいちばんむずかしいことなんです。読者を常に意識すること。
 真剣な対話になると、専門用語など、どうしても難解な言葉が飛び交います。地域おこしの事例などの取材の場合は、聞くほうも聞かれるほうもお互い真剣ですから、いきおいその地方で使われている独特な言い回しや、特別な意味をもった言葉で熱心に話してくれることも多いわけです。
  
 しかし読者は、その人の話す内容を文字で読み取るわけで、声や顔の表情という情報は入ってきません。さらに、その人がどんな人なのかもわからないので、「なんでこんなことを言っているのか?」ピンイメージ 7とこないことが多いわけです。
  
 だから、目で追ったときにスムーズに情報が入ってくるように、文字のリズムを整えたり、表現を平易にしたり、喩えてみたり、あるいはわざと誰も理解できないような言葉を強調して目をくぎ付けにして、後の1行でやさしく説明してみたりといったように工夫していくわけです。
  
 そんなふうにして文章の流れをつくりながら、「話してくれている人の思いがにじみだす文章にしたい」と毎回、願いながら書き込んでいます。
 
 これも100点はないんですが、原稿を書くたびにどんどん上手くなっていることを感じています。「あんな表現ができたらいいなあ」と3年前にどうしても到達できなかったニュアンスを最近、書き込むことができるようになったりしています。人間いつまでたっても勉強ですね(笑)。
 

 
  ―― 市のホームページや「Bird’s - eye view」というブログを通して、久慈を見つめ、他の事例など様々な情報提供をしてくださった宇部さんですが、久慈についてお聞きします。
 東京と久慈の暮らしを比べて、久慈の良いところ、悪いところは?
 また、多くの地域の人たちとの出会いがあったと思いますが、宇部さんが気づいた地域の特徴などはありますか?

 
 
 宇部 海外また日本全国、そして久慈、どこも「すばらしい」と思います。
 どこにもその地域独自の自然があり、独自の産品もあります。日本で行ったことがない県は鳥取くらいですけれども、たとえば沖縄に海ブドウがあるように、久慈にはホヤがある。岩手県の冷麺がほしいと福岡の人から言われたこともあります。
  
イメージ 11 いずれにしても、自然、食、人のすべてに優劣はない。でも、その地域に流れるストーリー、あるいは創ってきた文化、人の生きざまはみんなそれぞれ違っているのだろうと思います。
 そうした物語に魅力があり共感を得ることができれば、たとえば「あまちゃん」がいい例ですが、全国から注目を集めますよね。ブログで取材した尾道市NPO代表理事は「人が人を呼ぶ」と言っていました。
 
 それから、出版社時代に毎年、取材に行っていた沖縄はUターンしたいという出身者が多いし、移住者も多い。恵まれた経済環境にあるわけではない沖縄ですが、沖縄の人は自分たちの故郷に誇りをもって自然体で街を歩いています、少なくても私の目にはそう映ります。
 
 やはり沖縄に移住者が多いのも、そこに暮らす人たちの紡ぎだす生きざまを見て、「魅力ある土地だなと」感じるからこそなんだろうと思います。簡単に言えば、「幸せそうな人が多いな」と感じれば「私もあそこに行こう」「戻ろう」と、人間ですからね(笑)。イメージ 8
 
 印象しか話せなくて申しわけありませんが、科学的に分析できればどこの土地も人口減少とか経済の落ち込みとか、課題を解決できているはずなので、やはり一つひとつのケースを見て何かを感じていくしかないのだろうと思います。
 
 つまり、そこに住む人たちが幸せそうにしている土地、あるいは幸せを感じている土地が「いいところだな」ということになるので、その考え方、あるいはそこで生きる人や課題解決に向けて活動する人たちの姿を伝えたいなと思ってはじめたのが「Bird’s - eye view」ブログであり、市のホームページに掲載している「地域おこしケーススタディ」なんです。
  
 もちろん、私自身は久慈が生まれ故郷ですから、久慈がいちばん良いところだ!と言いたいのですが、反面、故郷だからこそ、とんでもない田舎だと極端に反応してしまイメージ 9うときもあります(笑)。
 好きな土地であることには変わりはありませんが、なぜ好きなのかと言われても「何となく」としか説明できないので、私に久慈のことを語らせないでください(笑)。
 
 





やりたいこと
 できることを
 
  ―― 最後に協力隊や支援員の後輩たちに何かアドバイスを頂けないでしょうか。イメージ 14

 宇部 2015年に久慈市が地域おこし協力隊制度を導入して、4月に第1号の協力隊員が1人就き、私は2人目で6月に就きました。その後、順次、協力隊員がふえていったのですが、私たち2015年度に協力隊に就いた数人はいわゆる「第1期生」と呼ばれました。
  
 久慈市も初めての協力隊員の採用であり、第1期生の協力隊員の中にもどう動くべきか迷ったりする人間もいました。やるべきことが見いだせなかった協力隊員は悩みました。
 総じていえば、どう活動を進めるか、第1期生たちは模索しながら歩み続けてきたと言えると思います。
 
イメージ 13 私の場合は、幸いにも情報を扱うこと以外に能がなかったので、やることは明確でしたが、それでもいま振り返ってみれば、もっと数多くのケーススタディを取材すべきだったと思っています。
 
 たとえば、人口減少の中で地域交通システムをうまく導入している自治体や団体あるいは住民グループのケースとか、農家レストランの経営ケーススタディ取材とかやるべきことはあったはずなんですが、躊躇しているうちに時間があっと言う間に過ぎていってしまいました。
 
 だから、これからも活動をする協力隊員また集落支援員のみなさんに、僭越ながら何か話すとすると、「迷っている暇があったら、やりたいこと、そして、できることをやるべきだよ」と言いたいですね。
 やみくもにやれということではなくて、ある程度の気持ちが整ったら、所イメージ 12属課あるいは住民のみなさんに相談するなどして、できることから順次、アクションを開始したほうがいいよということです。
 
 それから、私のためにも精力的な活動をお願いしたいと思います。久慈市に活気があふれれば、巡り巡って私も豊かに生きていけますから(笑)。
 みなさん、がんばってください。
 
 ―― ありがとうございました





                             
        


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夏の終わりに ー 時間そして記憶とは ー

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    これまでのようなケーススタディレポートに加えて、意の趣くままに綴ったエッセイも随時、掲載していきます。
 


Essay 
夏の終わりに
  ― 時間そして記憶とは ―
                      2018.8.30
                                <文・写真 宇部芳彦>


おいてきた何かを
見に行こう

  もしかしたら、いまが人生でいちばん長く原稿を書いていない時期なのかもしれない。
 今年6月10日から今日までの2か月以上、取材記事やストーリー原稿をつくっていない。
  大学を卒業して東京の出版社に11年間勤めたあと、フリーライターをやったり別の出版社に勤務したり…、今年6月10日までの3年間は地域おこし協力隊として働いた。
 出版社では新たな月刊誌を立ち上げたし、単行本をつくったりした。協力隊員としての仕事は、広報紙の取材、単行本づくり(記念誌の企画・編集)、集落事業のコンセプトプランニング(青写真づくり)などだった。
  つまり、取材・原稿書き・編集、そして事業プランニングなど編集者の仕事を学校卒業以来、一貫して20年以上イメージ 3ずっと続けてきたということになる。           
  想像してみてほしい。
 月刊誌は締め切りに追いまくられる毎日だ。毎月の製作サイクルは4週間ではなく3週間に設定していた。印刷に要する日数と刷り上がってから本屋に並ぶまでの日数を考えると、それでもギリギリ間に合うかどうか。
「原稿に向き合わない日はなかった」と言っても「嘘だ」と言う人はいないだろう。 
 もっとも、校了した次の日は文字なんか見たくもなかったし、実際、見ないことも多かったけれど。
  一方、単行本は企画の立ち上げから本として完成するまでの期間はおおむね半年から1年くらい。完成までの期間は長いが、だからといって3日も4日も放っておけば進行が遅れて、後半は泣きたいくらいタイトなスケジュールになる。自らが原稿を書かない場合でも、執筆者のところに行って催促しなければならない。                
  そして、2か月以上の「原稿書き空白期間」となったいま、心が「なんでもいいから文字を書け」と命令してきた。だから、思いつくままこの文章をタイプしている。
  原稿を書くこと、それは僕の人生にとっては食事と同じように、生きるために必要不可欠なことなのかもしれない。
  たまたイメージ 1まこれを読んでくれている人の人生にも必要不可欠な何かがあり、それぞれが大切なものを胸の奥にしまっている…。
  夏の終わりの夕日を眺めていると、そんな思いが淋しさといっしょになってわきあがってくる。

置いてきた何かを見に行こう   
                                                   


不思議なお話をイメージ 2
    
 校庭のブランコを漕いでいる小学生の僕、ヒースロー空港で入国審査を受けている27歳の僕、ロサンゼルスのバスの中で黒人運転手と会話している30歳の僕、神保町の交差点で信号待ちをしている42歳の僕…。
 どの僕も、いま、その場所に、いる。 
 アインシュタイン相対性理論で「過去、現在、未来は同時に存在している」と言った。おとぎ話のような不思議な話に、僕はいまなんとも表現のしようのないあたたかさを感じている。
 


 時間とはなんなのだろうか。現在とは、過去とは、未来とは、記憶とは……。                
 昔、よくターンテーブルに載せてイメージ 4いたレコードアルバムがあった。世界への憧れが大きく膨らんでいた18歳のころだ。
 まだ見ぬ未来への不安や恐れは、少しもなかった。
「Only Time Will Tell」という4分45秒の曲がお気に入りだった。



                                                      <2018年8月30日  文・写真 宇部芳彦 > 





シリーズ移住定住-その6 ふるさとで生きる

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シリーズ移住定住【その6】

 ふるさとで生きる  
                           2018.2.21

 「嵯峨豆腐店」代表の嵯峨大介(さがだいすけ)さん35歳(写真右)、東日本大震災の直前に故郷の岩手県久慈市山形町に戻り、祖母が昭和32年にはじめた豆腐店を受け継ぎ切り盛りするようになってから7年が過ぎた。山形町の現在人口は2,525人(平成27年国勢調査)。嵯峨さんは、祖母から教わった昔ながらの木綿豆腐の良さを訴えるとともに、白・紅・青の三色豆腐を商品化、自身で栽培する幻の山白玉大豆(やましらたまだいず)を使った豆腐を東京の百貨店で販売するなど、小さな故郷の味を全国ブランドに押し上げようと日々、努力を続けている。


とまらない若者の流出

 「地方創生」「地域おこし」の言葉が巷を駆け巡っている。
 人口減少が進み、地方の未来をつくるためには「移住定住を促進しなければならない」との声であり、国また多くの自治体などが人口減少抑制のために各種の施策を打ち出している。
 イメージ 14若者が都会へと流出するのは故郷に自身の望んでいる仕事がないこと、もっと言えば「仕事そのものがない」ことが大きな要因だと言われている。もちろん、たとえば大学がないため進学で地元を離れるケースなど理由はそれだけではない。しかし、進学するのも「いい職業に就きたいから」という動機に支えられているのであれば、結局は「仕事」という一語に帰着する。
 では、都会の職業環境はバラ色なのか?
 答えはノーでありイエスである。
 人が多いぶんだけ地方よりは仕事の絶対数は多いし、職種も富んでいる。しかしながら、希望の仕事に就ける可能性は努力や能力あるいは運しだいである。技術や能力があっても刹那的な働きかたをせざるを得ない人もいる。失業者も当然ながら多い。
 都会の給料は地方よりは多額かもしれない。しかし、アパートなどの家賃は地方より高い。そうであれば、自由に使えるお金は地方で働くことと似たような水準になるかもしれない。それであっても、新聞やテレビは「東京への一極集中はとまっていない」と伝えている。

 
特効薬はない

 都会への人口流出、とりわけ若者の流出はいまにはじまったことではない。
 実は、私(=筆者)もUターン者である。筆者は昭和40年代後半から昭和50年代、つまり高度経済成長からバブル経済につながる「経済成長期」に岩手県久慈市で小中高校時代を送ったが、当時も「父親は出稼ぎだ」とか「兄は東京で働いていて、盆正月にはお金をたくさんもって帰ってくる」と話す同級生が多かった。
 お前を養う余裕はないから自分で働いて食っていけと言われたとか、お金をいっぱい稼ぎたいからとか、この仕事は都会にしかないから、自分イメージ 15
の可能性を切り拓きたいからなどの理由をあげて若者は都会へ出ていった。かく言う筆者も、一花咲かせようと上京したうちの一人である。
 パーソナル(個人的)なレベルにまで都会へ出る理由を落とし込んで考えてみるならば(その人の育った家庭環境などさまざまな事情によって都会に出ざるを得ないこともあるし、田舎にとどまらざるを得ないこともあるだろう。それを承知のうえであえて言い切るけれども)、出るもとどまるも結局はその人の選択であり価値観である。人は、より幸せになろうと可能性を求めて生きるのだから。
 このように、人が都会へと出て行く理由はいまも昔も大差はない。
 しかしいま、日本中で少子高齢化が進んでいる。日本中が「この先、困ったことになる」と頭を抱えている。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という本まで書かれた経済絶頂期でさえ、おそらく日本中の田舎はその十分な恩恵にあずかれていない。長らく低迷してきた地方はいま、なおさら危機感を強め「移住定住を促進しよう」「若者の力で地域を元気にしよう」という声を大きくしている。
 都会に出て行った人、故郷で生きる人、誰にとっても自分の生まれた場所がさびれていくのは喜ばしいことではない。でも、それを解消する特効薬は見つかっていない。ならば、事例一つひとつを見て何かを感じるしかない。だから、今回もケーススタディを書き込む。


一時帰省が定住へ
~避難所でのありがとう~

 平成23年2月29日、東日本大震災の直前に嵯峨大介さんは生まれ故郷の山形町に「Uターン」してきた。
イメージ 16 近所の豆腐店が辞めるという店を譲り受けて、祖母ツナさんが26歳のときにはじめた「嵯峨豆腐店」は今年で創業60周年、嵯峨さんが受け継いで7年になる。
 ツナさんはもともと「炭焼き」をしていたため豆腐作りはまったくの素人だった。そのため基本に忠実な木綿豆腐(大豆をふんだんに使った腰のある、いわゆる昔豆腐)しか作れなかったが、だからこそ美味いと言われる地元で評判の豆腐店だった。
 昭和57年、久慈市と合併する以前の山形村霜畑(写真左上)で生まれた嵯峨さんは、地元の霜畑小学校(写真右下)、霜畑中学校、県立久慈高校を卒業して、東京・御茶ノ水明治大学に進学した。イメージ 17
 卒業後は自動車メーカーの「スズキ」に入社、営業職として各地のディーラーを訪問するなど忙しく飛び回る生活を送っていたが、思い描いていた社会人生活とのギャップに悩み退職した。嵯峨さんは「決めたら後先考えずとにかくやりきるという性格、エンジンが過回転を起こしたのかもしれないですね」と笑う。
 再就職を決めるまでの少しのあいだ落ち着いて今後のことを考えようと、一時的なつなぎのつもりで嵯峨さんは帰省した。
 その11日後に、東日本大震災が東北を襲う。
「震災で身動きがとれなくなり、先のことが真っ白になりました」(嵯峨さん) 
 東北のみでなく関東圏などでも被害は大きく、産業インフラもふくめて人々の生活がずたずたになった。東北新幹線も長期間、運転をストップした。山形町は停電したり水道水が白濁したりしたが、久慈市内でも内陸に位置しているため被害程度はほかの地区にくらべると軽微だった。イメージ 18
「ただ時間だけがありました。祖母はリウマチになり、一人では豆腐が作れなくなっていた。小さいころから食べてきた美味しい豆腐の作りかたを教わる機会はいましかないのかなと思いました」(嵯峨さん)
 教わりながら作った豆腐を、嵯峨さんは被害の大きかった野田村、釜石市宮古市田老地区、大槌町陸前高田市などの避難所に届けて回ったという。
「ありがとうの言葉をいただくうちに、祖母の豆腐を残したいという気持ちになってきて、これを仕事にすべきかもしれないと…かなり悩んだのですが、決心しました」
 こうして、平成23年6月「嵯峨豆腐店」の事業を引き継ぎ、同年10月に代表に就任して、嵯峨さんの故郷定住生活はスタートした。


苦悩を振り切って決断

 受け継ぐことを「かなり悩んだ」と言う嵯峨さん(写真左下)、震災から事業引き継ぎ開始の6月まで決意に3か月の時間を要しているわけだが、ここで豆腐店というビジネスを概イメージ 1観してみたい。
 一般的に、豆腐は長期保存がきかない。数万円などという単価はふつう考えられないため粗利も少ない。豆腐店の商売は、豆腐が日常の暮らしの中で消費される商品であるため近場の常連を相手に継続的・安定的に販売していく「地域密着型ビジネス」の代表格と言える。事業を大きく発展させるためには、よほどの設備をもって大量生産し、数を捌かなければいけない。大量に販売できる顧客数が見込めることが前提になるわけであり、見込みと実際の販売数が違えばあっというまに採算割れを起こす。
 祖母が50年来続けてきた老舗の豆腐店とはいえ、かつて7,300人(昭和35年)が暮らした山形町の人口は現在2,500人ほどになっている。嵯峨さんが祖母の店を受け継ぐにあたって悩んだのは当然である。
「受け継いだ」と表現するよりも、「起業した」という言葉をあてはめたほうが嵯峨さんの心境をより正確に言い当てているのかもしれない。
「嵯峨豆腐店・代表」という嵯峨さんの肩書からは、数人が働く組織の社長の姿を想像するかもしれないが、特別なことがイメージ 2ない限り人手を頼むことはない。嵯峨さんほぼ一人で豆腐作りから販売までのすべてを行っている。
「大学を卒業したのに、田舎で豆腐作りかという未練がましい気持ちも正直ありました」と当時を振り返る嵯峨さん、かなりの苦悩を振り切っての決断であったことがこの言葉からも伝わってくる。

 
従来スタイルを打ち破る

 「やるからにはやりきる」性格の嵯峨さんは店を受け継いでから、教わった豆腐作りにさらに磨きをかける。マーケット人口がどうであれ、基本はやはり「美味しい」と言われる豆腐を作ることにあるからだ。
 嵯峨さんはこの7年間、「本物の豆腐作り」に徹底的にこだわり続けてきた。
原料は国産大豆のみであり、使用するにがりは沖縄の天然にがりと瀬戸内海の天然にがりで、沖縄の天然にがりはわざわざ沖縄から取り寄せている。水も岩手の名水20選に選ばれている地元山形町霜畑にある「清水川湧口(写真左下)の水だ。
イメージ 3「大豆の使用量もおそらくほかの店の木綿豆腐の3倍くらいだと思うし、スーパーなどで売っている安価な豆腐とはくらべものにならないくらい多く使っている」(嵯峨さん)
 嵯峨豆腐店の現在の商品は、木綿豆腐、厚揚げ、ガンモドキである。
「三色」の濃厚木綿豆腐も平成27年に商品化した。
 その名の通り、白い豆腐、紅い豆腐、青い豆腐である。食紅は使っておらず、大豆の種類を変えることで色をだしている。白の「濃いもめん」は岩手県産のナンブシロメという大豆を使用、「薄紅のあんな」は希少な山形県川西町の紅大豆を、「濃いもめん青」に使っているのは国産高級青大豆だ。もちろん、これらイメージ 4もふつうの豆腐の3倍ほどの大豆を使用しており完全手作り。それぞれ単価は230グラムのもので1丁400円ほど、白・紅・青各2丁ずつを1セットにした「濃厚な手造り豆腐3種」も2,400円ほどで販売している。
 それだけにとどまらず、平成25年からは幻と言われている地元の「山白玉」大豆を自身で栽培しはじめた。全国広しといえども、自身で大豆を育てている豆腐店を寡聞にして筆者はほかに知らない。
 さらに特記すべきは、販売チャネルである。
 山形町の店舗に行って「豆腐をください」と言っても在庫しだいであり、その場で手に入れられる可能性は極めて低い。地元ではたとえば久慈市内の官公庁など、彼のイメージ 5豆腐の価値を認めてくれる人が多くいる場所に出向いて販売している。
 原材料にコストをかけ、手間暇かけて手作りした豆腐を人口が少ない山形町の店舗だけで販売しても、売れ残った場合、採算的にも精神的にもダメージは大きい。ちなみに、1回20キロの豆腐を手作りするのに3時間をも要すると言う。同店の豆腐は1丁230グラムのものと1丁480グラムのものの2サイズがあり、20キロをそれぞれのサイズに切り分けるそうだ。便宜的に480グラムのものだけに換算してみると、1回3時間の作業で商品化できる豆腐は40丁ほどである。効率的・合理的に量産している商品ではないことがすぐにわかる。イメージ 6
 そのため同店の豆腐は、盛岡市内の飲食店へ、テレビ東京の「虎の門市場」(=通販番組。WEB上の通販サイトもある)で、また東京および東京近郊の百貨店で開催されるイベントなどで随時、販売している。この3月からは、全国グルメの通販サイト「オンワード・マルシェ」でも販売を開始する。
 こうした販売方法は、店を引き継いだ当初から嵯峨さんが戦略としているもので、実際、彼が代表に就いた平成23年10月の時点で、盛岡市内の飲食店やホテルとの取引を開始している。
「山形町また久慈市全域であろうとも人口減少が進み、すたれていく一方です。従来イメージ 7のようにご近所さんに買っていただく個人経営の豆腐店スタイルに固執していては、商売を続けていくことが早晩むずかしくなる。私がここで生きていくため、あえてメインの販売チャネルを外に求めているんです」(嵯峨さん)
 祖母から教わった昔ながらの豆腐に「こだわり」という価値をプラスして、その価値に見合った金額を払うことをいとわない人を顧客に取り込もうという付加価値戦略である。



尖った個性が輝きを放つ

 三色豆腐の商品化にしても、地元をメインターゲットに据イメージ 8えない販売方法にしても、嵯峨さんのやりかたは地元の人たちの目には奇をてらったように映っているかもしれない。
「戻ってきて豆腐屋を継いだと思ったが、大介は何をやりたいのかさっぱりわからない」という声も漏れ聞こえてくる。嵯峨さんのために付言しておけば、決して地元をないがしろにしているわけではなく、地元マーケットを大切にしたいという思いもまた強い。しかし、古くからの豆腐店のありかたを常識とする地元の人たちにとってみれば違和感を覚えるのだろう。
 彼のやりかたはつまり、保守的な感覚からすれば「尖っている」わけだ。でも尖っているということは、その他一般に埋もれない個性を放つ。だから、注目される。
 昨年4月、日本イメージ 9テレビのグルメ・紀行番組「満点☆青空レストラン」で嵯峨豆腐店の三色豆腐が紹介された。結果、全国からの問合わせがあいつぎ、いつもの5倍の量の注文が入ってきた。地元の主婦ら数人を雇用して3か月のあいだ休みなく豆腐を作り続けて何とかこなしたという。


故郷の味を創りだす
 ~「幻」を全国へ~

 彼の挑戦はそれだけでは終わらない。
 現在、嵯峨さんは「クラウドファンディング」でさらなる道を切り拓こうとしている。クラウドファンディングとは、インターネット経由で不特定多数の人から組織やプロジェクトなどに対して資金の協力を募るもの。
 嵯峨豆腐店のクラウイメージ 10ドファンディングは、岩手に特化したクラウドファンディングサイト「いしわり」にプロジェクト概要を掲載。「久慈の在来品種『山白玉』を栽培して『嵯峨とうふ』を作る!~久慈のブランド豆腐として全国へ~」というタイトルで100万円の資金調達額(協力金額)を目標に募集している(募集締切平成30年3月30日)。
 なお、在来品種とは特定の地域に古くからあった特定の品種のこと、つまり山白玉は久慈特有の品種である。
 特有の甘みと深いコクを特徴とする山白玉は、かつて岩手県の奨励品種であったが病気に弱いため淘汰されていった。
 生産する人がいなくなり久しくなっていたこの山白玉に可能性を感じた嵯峨さんは、わずかに残る種を地元の農家などからわけてもらい店の前にある実家の畑で栽培しはじめた。また、近隣に協力者を得て、その人も自身の畑で山白玉を栽培してくれることになったと言う。平成25年のことだ。
 山白玉は4月あるいは5月に植えて11月に収穫するが、嵯峨さんと協力者の2人の収穫量は合計で70キロほど。収穫した山白玉でイメージ 11豆腐を作り、池袋、立川、府中、浦和など東京および東京近郊の百貨店など6か所で1丁1000円を少し超える価格で試験販売したところ好評を得た。一昨年からは、この山白玉の豆腐を「特濃もめん『幻』」(まぼろし)と名づけて、嵯峨豆腐店の商品ラインナップに加えた。
「どこで育ててもいいということではなくて、やはり久慈の気候と土のなかで山白玉は甘みとコクをたたえて育つのだと思います。これを使った、久慈の味を全国の人に食べてもらいたい」(嵯峨さん)
 しかしながら、収穫量はわずか70キロである。「幻」を全国発信するためにも山白玉の作付面積をふやしたい、地元の農家に生産をお願いする資金に充てたいというのが、クラウドファンディングで協力を呼びかけている理由である。そのほか、「絹豆腐も作ってくれ」という声に応えるための資金にも充てたいと話す。


もういちど都会に

 では、Uターン者として嵯峨さんは地域の現状をどのように捉えているのか、移住定住者をふやす方策についてはどのような意見をもっイメージ 12ているのか。
 ―― 故郷に戻ってきて最初に感じたことは何でしょうか、ストレートにお話しいただきたいと思いますが。
 嵯峨 まぎれもなく過疎化が進行していると思いました。たとえば、私は霜畑中学校を卒業していますが、生徒数が減ったため平成21年3月に閉校しています。
 人が減っているため、まず地元では商売になりません。そのため、外で売るためにただの豆腐ではなく、豆腐にこだわりという付加価値をつけて販売しています。いいものを作り、外へ発信していく。そういったやる気のあるかたに呼びかければ、人も集まるのではないでしょうか。そういった政策を自治体が率先していくべきだと思います。
 ―― 人口だけでなく、地域経済も縮小している?
 嵯峨 人口が減っているので、当然地域経済も衰退しています。私自身も豆腐屋を引き継ぎ7年目になりますが、とてもじゃないけれど生活できる状況ではありません。実家だから生活できています。いきなり移住定住といってもそう簡単なものではないと思います。
イメージ 13 いきなり移住定住してくれといっても無理があると思いますので、私はまず、都会の人にきてもらうことで交流の場としてはじめるのがいいと思っています。そこから地域経済が活性化するきっかけが生まれると思っていて、そのため、私は外への情報発信に力を注いでいます。
 ―― このシリーズのテーマは「移住定住」です。移住定住者をふやしていくためには何が必要だと考えていますか?
 嵯峨 先ほども言いましたように、外への働きかけが大事だと思います。移住定住のターゲットは、田舎で何かをやってみたいというやる気のある若い人がいい。そういった人がきてくれると田舎にエネルギーが生まれると思います。
 ほかに「Uターン者」をターゲットにするのもいいと思います。田舎のいいところを知っていますし、都会を経験したうえで田舎生活をしたいと思っている人もいると思うからです。
 そういった人たちを集める政策を自治体が考え、外に向けてどんどん発信していくべきだと思います。私自身も、どんどん発信していきたいと思います。
 ―― 将来の夢はありますか?
 嵯峨 東京に店を出すことです。
 ―― え?
 嵯峨 豆腐作りはここ山形町でいいかもしれません。ただ市場がありません。いいもの作って、それが売れる場所を作る。それが当面の目標であり、生きていけるようにするための術だと思います。そのために、外へ働きかけることを続けていきたいと思います。
 ―― なるほど、田舎の価値を知る人が誇りをもって生きていけるようになること、そして、地域の価値を外からきちんと認めてもらえるように努力すること、それが地域の活性化ひいては移住定住者増へつながるのだということでしょうか。
 嵯峨さんの絶え間ない挑戦が大きく花開くことを願っています。今日はありがとうございました。
                        取材日 2018年2月15日
                                 取材・文 宇部芳彦(久慈市地域おこし協力隊)

             
      

さあ 碧の海へ

イメージ 1 Bird's-eye view
  
  TOPICS

    さあ 碧の海へ 

                                                                    2017.7.4
                 
 岩手県久慈市小袖海岸では「北限の海女の素潜り実演」が7月1日から開始されています。9月末までの土日祝日・1日3回行われる実演、透きとおる碧(あお)の海と彼女たちが潜る流麗な姿は、多くの人を惹きつけてやみません。海のないまちからきた藤織ジュン(ふじおりじゅん)さんと前田比奈(まえだひな)さんも、笑顔と涙で小袖の海に潜っています。

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輝きを切り裂き 海の中へ

 涼やかな風が吹きわたる小袖海女センターの展望台、ここは地球が丸いことを実感させてくれる場所。弧を描く水平線がかなたに広がり、足元には太陽を反射してキラキラと眩しく光る海。その輝きを切り裂くようにして、碧(あお)の海へと女性たちがするすると、まるで吸い込まれるかのようによどみない姿で潜っていく。
 しばしの静寂を破り、顔を出したその手に掲げられているのは透きとおる海からの恵み。見つめていた人々の吐く息の音、にわかにわき起こる拍手…。
 北限の海女の素潜り実演は毎年7月はじめから9月末までの土日祝日・1日3回、このような風景のなか展開されています。
イメージ 3 海女たちが手にしているのは手のひら大のウニ、海から上がってきた海女は、いまそこでとったばかりのウニの殻を剥きます。殻を剥く手さばきを見逃すまいと、まわりには黒山の人だかり。身をあらわにした殻ごとのウニは1個2個と、人々の手にわたっていきます。
 なお、グループなどの見学予約が入れば、素潜り実演は平日でも行なわれています。
 8月の第1イメージ 4日曜日には、海女たちと地域が一体となって繰り広げる「北限の海女フェスティバル」も開催されます。海女フェスティバルの日にも、もちろん素潜り実演はプログラムに組み込まれていて、毎年駆けつけてくる常連ファンの姿も見受けられます。
 NHK連続テレビ小説あまちゃん」が2013年に放送されてからは、遠方からの観光客が急増し、「じぇじぇじぇ!」はもちろん、小袖海岸には日本各地の言葉が飛び交うようになりました。
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都会の女性が海女に出会う
~ 若い2人のライフストーリー ~

 「北限の海女」の言葉の由来をご存じでしょうか?
 北三陸あまちゃん」観光推進協議会のホームページによると、北限の海女とは「久慈市小袖海岸で活動する海女たち」の総称のこと。1959年(昭和34年)放送のラジオドラマ「北限の海女」で当地の海女は有名になりました。
 名づけ親は、このドラマの脚本を書いた故・水木洋子さん、以来、久慈市また小袖の海女は北限の海女と呼ばれるようになったといいます。
 水木さんは「ひめゆりの塔」「裸の大将」「浮雲」など数々の名作を生み出した人。「北限の海女」では「都会の女性と小袖の海女の出会いと生き方」が描かれたのだそうです。イメージ 6
 さて、小袖の海で素潜り実演を行なっている海女のうちの2人、藤織ジュンさんと前田比奈さんは久慈市の地域おこし協力隊員です。久慈市役所の観光交流課に籍を置き、地域おこし協力隊として「北限の海女のPR」を主力ミッションに活動しています。
 全国的に海女の後継者不足が課題になっているということですが、藤織さんは現在25歳で東京都北区の出身、前田さんも25歳、千葉県茂原市の出身。2人とも若く、海のないまちの出身です。
 藤織さん(=写真左下)は一昨年(2015年)地域おこし協力隊員になり、素潜り実演に参加して今回2017年が3シーズンめ、前田さんは昨年(2016年)協力隊になったので今回が2シーズンめの潜りです。
イメージ 7 それぞれの「活動スタンス」と「将来ビジョン」を書き出してみましょう。
 藤織さんはプロの俳優として活動していましたが、劇団の久慈公演をきっかけにして、久慈市の地域おこし協力隊員になりました。
 藤織さんの協力隊員としての活動は、「海女」を中心に「あらゆる観光資源」を拾い上げ、久慈市また北三陸へ「観光客を誘致する」というコンセプトで貫かれています。
 たとえば昨年は、真冬!に盛岡駅前広場で通りすがりの不特定多数に向けて久慈市山形町で行なわれている「闘牛大会のPR」を行なっています。そのいでたちは「海女のかすりハンテン姿」、マイナス気温だったので寒さは想像を絶するものだったと思いますが笑顔を絶やさずにマイクを握ってアナウンスしました。現在でも、時機をとらえて東京など県内外各地にでかけ「北三陸へぜひきてください」と一生懸命に訴えています。
 藤織さんは、協力隊の任期終了後も久慈で暮らしていくと話しています。
「私は久慈で起業する予定です。仕事内容はたとえば、久慈また海女の関連グッズ開発と販売。また、私は俳優でしたのでたとえば久慈のイメージ 8観光誘客のためのイベント出演や司会など自分を商材にする事業も。さらにはイベントプロデュースなども手がける会社にしたい思っています。一言でいえば、観光プロダクションと言うのかな? もちろん北限の海女は私にとって大切なもの。それはずっと変わりません」(藤織さん)
 一方、前田さん(=写真右)に協力隊卒業後の身の振りかたを聞くと「海女になります」とストレートに返してきます。
 協力隊の試験のときに、生まれて初めて久慈市を訪れた前田さん。2回めの久慈訪問は採用が決まって「移住してきたとき」でした。「あまちゃん」を見て、海女になりたいという一心で久慈にやってきたのです。
 久慈の海女は観光客に潜る姿を見せて収入を得る「観光海女」の側面が強いのですイメージ 9が、「漁」も収入源とする「商業海女」の活動もして1年をずっと海女として過ごしたい、当初、彼女はそう言って目を輝かせていました。しかし、久慈の海は冷たくてシーズンオフの期間に潜ることは、ほぼ不可能なのです。
 昨年秋からの「素潜り実演」オフの期間中、前田さんは全国各地の海女漁のあり方を調べたり、海女文化を研究したり、潜りの技術を高めるため海水の暖かい「鳥羽」の海女のもとで実習させてもらったりしました。
「勉強すればするほど、海女という職業は課題だらけだということがわかってきて…。でも、たとえば冬の間は海女文化を伝えて収入を得たり、夏にとったものを加イメージ 10工して販売したり、どうしてもむずかしければオフのあいだは毎年決まって勤められる会社を探すとか…。これまで以上に真剣に勉強して、夢を叶える方法を絶対に見つけだします」(前田さん)




種市高校の潜水実習プールで今年もシーズン前に特訓した藤織さん(右)と前田さん(左)



夢を描く人が集まる場所
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 生来、運動神経がいいのか、あるいは俳優として培ってきたプロ魂が支えになっているのか、潜りに関しての弱音を藤織さんはいっさい口にしません。
 海面に浮かびあがったときに見せる顔には、いつも笑みをたたえています。
 久慈にくる前は泳ぐことも潜ることもできなかったという前田さん、昨年の初のシーズンでは特訓の成果を披露し大きな拍手を受けて感激の涙イメージ 12を浮かべていました。
 こうした2人が、伝統を大切に守り続けてきた地元の海女たちと一緒になって今年も潜っています。見た人が「何か」を感じないはずがありません。
           * 
 さあ、輝く北の海にでかけましょう。華麗な技を誇る海女も若い新人もさまざまな未来を見つめています、あなたと同じように。
 小袖海岸は夢を描く人たちが集まる素敵な場所です。




          取材2017年6月27・28日、7月1日。文・宇部芳彦